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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <米欧回覧と文明開化>第2回~米大陸横断鉄道の旅

    オークランド発

     岩倉使節団は1872(明治5)年1月15日、太平洋航路で、最初の訪問国であるアメリカ・サンフランシスコに到着しました。

    • サンフランシスコのグランドホテル(1872年撮影、Courtesy of the California History Room, California State Library, Sacramento, California)
      サンフランシスコのグランドホテル(1872年撮影、Courtesy of the California History Room, California State Library, Sacramento, California)

     勝海舟らの「咸臨丸」以来、12年ぶりの日本使節団の来航は、市民から大歓迎を受け、大使・副使らは、最も格式の高い「グランドホテル」に投宿、その壮大な建物や行き届いた部屋の設備に驚嘆の声をあげます。

     別のホテルでは、団員がロビーの一角にある小部屋、つまり「エレベーター」に乗り込み、にわかに釣り上げられて肝をつぶすなど、何もかもが初体験、「驚異の種」(久米邦武『回顧録』)でした。

     連日のように歓迎行事が催され、現地の政治家や官吏、軍人、事業家たちが多数押しかけます。サンフランシスコの派手な饗応(きょうおう)ぶりに、副使の木戸孝允は、「何かお返しをしなければ独立国の体面が保てない」と、いたく心配します。

     他方、使節団一行は、施設見学を怠りませんでした。毛織物や鉱山機械の製造工場、裁判所や議事堂、小学校、兵学校、大学などの教育施設、電信機局も視察。植物園や動物園も精力的に見て回りました。カリフォルニア劇場で芝居も見物しています。

     1月31日、使節団は、いよいよ「アメリカ大陸横断鉄道」の旅に出ます。

     アメリカ大陸を西から東へ、太平洋から大西洋へと横断する7昼夜の旅程です。サンフランシスコ湾に面したオークランドの駅から貸し切り列車で出発、首都・ワシントンをめざします。

    蒸気車に乗る

     もともと、東部13州だったアメリカは、イギリスが独立を承認した1783年のパリ条約で、ミシシッピ川以東の領土を獲得すると、1803年にはフランスからルイジアナ(ミシシッピ川以西、ロッキー山脈までの地域)の買収に成功し、19年にはスペインからフロリダを購入しました。

     その後、西部開拓によって45年、テキサスを併合し、メキシコとの戦争でカリフォルニアやニューメキシコを獲得、イギリスとの共同管理地域になっていたオレゴンなども領土としました。

    • 1873年当時のアメリカ鉄道路線図と主要都市
      1873年当時のアメリカ鉄道路線図と主要都市

     こうして急速に拡大したアメリカの領土を横断する鉄道建設事業は、西部の開拓やカリフォルニア州の成立、わけても南北戦争時の南部の連邦離脱で建設ルート問題が解決したことから進展し、62年に連邦議会で認可されます。

     ユニオン・パシフィック鉄道が、ネブラスカ州のオマハを起点にして西方向へ、セントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州のサクラメントから東へと敷設を進め、ユタ準州のオグデン付近で69年5月10日、連結されました。

     とくにサクラメントからの工事は、シエラネヴァダ山脈を横断しなければならないために難航し、数千人の中国人移民労働者が使役されました。彼ら中国人移民はやがて人種差別的な扱いを受けるようになり、中国人移民を禁止する中国人排斥法が82年、初の移民制限法として成立します。

     なお、アメリカに張りめぐらされた鉄道の総延長距離をみると、1860年には4万9000キロでしたが、90年には30万9000キロへと伸び、国内の鉄道網がほぼ完成します。

    日本も鉄道建設を急げ

     鉄道についての知識は、幕末、日本にもたらされました。

     1854年、ペリー来航の際、アメリカは日本への贈り物として小型蒸気機関車の模型を船に積んできました。横浜で披露されましたが、『ペリー提督日本遠征記』は、その様子を「(機関車は)小さいので6歳の子供を乗せるのがやっとだった。それでも日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、屋根の上にまたがった。威儀を正した大官が、長衣を風でひらひらさせながら、ぐるぐる回っている姿は、少なからず滑稽な見ものだった」と書いています。

     ただ、日本人は模型に興じていただけではありません。

     西洋の先進技術の摂取で抜きんでていた佐賀藩の精錬方(せいれんかた)は、53年に長崎に来航したロシア使節・プチャーチンが積んでいた蒸気機関車の模型をじっくりと観察していました。

     さらに、長崎奉行所がオランダから購入した小蒸気船を分解して仕組みを理解すると、55年には蒸気船と蒸気車の「動く」模型を製作したのです。これが日本人の手による初の蒸気船・車といわれています。

     明治新政府が、日本の鉄道敷設計画を決定したのは69年12月のことで、アメリカ大陸横断鉄道が完成した直後でした。東京―京都間の幹線鉄道をはじめ、東京―横浜間、琵琶湖近辺―敦賀間、京都―大阪―神戸間に支線を設けるという内容です。

    • モレル
      モレル

     鉄道敷設の推進役は、大蔵大輔・大隈重信、同少輔・伊藤博文らでした。鉄道網の整備は、モノとヒトの移動量を増大させ、貿易・経済を発展させ、国民の一体感をも醸成する。彼らがそう考えるに至ったモデルが、欧米にあったことは明らかです。

     70年には東京―神奈川間の測量・着工にこぎつけ、お雇い外国人のイギリス人建設師長モレルの指導・監督の下で工事を開始し、翌71年、イギリスの車両で試運転を始めました。

     72年10月14日、日本最初の鉄道として、新橋―横浜間の開業式が横浜駅と新橋駅の2か所で行われました。式典には、明治天皇が直衣(のうし)烏帽子(えぼし)姿で出席し、天皇自ら、新橋―横浜間を鉄道で往復しました。

    • 東京汐留鉄道御開業祭礼図(東京都港区立港郷士資料館所蔵)
      東京汐留鉄道御開業祭礼図(東京都港区立港郷士資料館所蔵)

     開業式や沿線には多数の民衆が押しかけ、西洋文明の利器を目の当たりにすることになります。

     使節団の岩倉らは外遊中のため、開業式に出られませんでした。しかし、実のところ、一行は、外遊出発直前の71年11月、この鉄道に試乗していました。

     その一人、大久保利通は、よほど感心したとみえ、「蒸気車に乗る。実に百聞(ひゃくぶん)一見(いっけん)()かず。愉快にたえず。この便を起こさずんば、必ず国を起こすこと(あた)わざるべし」と日記に書いています。

     大久保の子である牧野伸顕は、この時の試乗を後年、振り返り、「米国に着いて初めて汽車に乗るのでは体面に係わるというので、皆品川の浜辺まで行き、プラットフォームなどないので、露天で(みぎわ)(水際)より汽車に乗って横浜まで行った」(牧野伸顕『回顧録』)と、その内情を語っています。

    大平原を走る

     岩倉使節団の一行は、カリフォルニアの州都サクラメントで、これから乗る大陸横断鉄道用の蒸気機関車の製造工場を視察しました。

     列車がシエラネヴァダの険しい山岳地帯に入ると、機関車を3両連結する「三重連」で登ります。一行は、車窓からインディアンの生活を垣間見ました。

     大陸横断鉄道の竣工(しゅんこう)の地、オグデン駅に着いたあと、モルモン教徒が47年に入植した町、ソルトレークシティーに向かい、モルモン教会を訪ねます。使節団は折あしく、当地で大雪に見舞われ、18日間も足止めされます。

     開通のあと、列車はロッキー山脈の無人の荒野を3日間走り続けました。

     使節団がアメリカ西部を訪ねた時期は、「ロングドライブ」がもっとも盛んな時期でした。

    • 当時のカウボーイ(1888年ごろ、米国議会図書館蔵)
      当時のカウボーイ(1888年ごろ、米国議会図書館蔵)

     ロングドライブとは、南北戦争後のテキサスで3~4ドルの牛が、北部市場では40ドルもの高値がつくと知った牧畜業者が、66年ごろから始めた牧牛(ぼくぎゅう)(牛の放し飼い)のことです。

     つばの広いテンガロンハット、ジーンズの元祖というべきズボンを身に着けたカウボーイが、テキサスから数千頭の牛をミズーリなど北方の鉄道の駅まで追っていき、沿線の大規模市場へ送り出しました。

     ロングドライブは以来、有刺鉄線で耕地を囲む開拓農民や、保留地のインディアンらとの紛争を繰り返しながら20年間にわたり続けられます。

     岩倉使節団の列車は、ミズーリ河岸のオマハを経て、大都市のシカゴに到着。さらにピッツバーグを経由して72年2月29日、ワシントンに到着しました。

     サンフランシスコを出てからはや1か月が過ぎていました。

    南北戦争の英雄・グラント

    • グラント大統領(中央)に国書を奉呈する岩倉使節団(1872年、米国議会図書館蔵)
      グラント大統領(中央)に国書を奉呈する岩倉使節団(1872年、米国議会図書館蔵)

     岩倉大使をはじめ木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らは3月4日、ホワイトハウスを表敬訪問し、第18代米大統領グラント(1822~85年)に国書を捧呈します。

     64年、南北戦争で北軍の総司令官に任命されたグラントは、翌65年、ヴァージニアで南軍総司令官のリー将軍が率いる軍団を打ち破り、北軍に勝利をもたらした英雄でした。

     南北戦争終了直後の65年4月15日、リンカーン(56歳)が南部人の俳優によって暗殺され、後継の大統領には、副大統領のジョンソンが昇格します。グラントは、68年大統領選で共和党から推されて立候補し、第18代大統領に就任しました。

     グラントは大統領を2期つとめたあと、世界周遊の旅に出て、79年に来日します。岩倉ら顕官が前大統領夫妻を迎え、旧交を温めますが、グラントはこの訪日で、日本の内政・外交について忠告や警告を発し、明治天皇らに強い印象を与えます。

     さて、岩倉使節団の訪問は、グラント政権1期目のことで、使節団一行は南北戦争終結(65年4月)から7年後のアメリカをみたことになります。

     南北戦争は、悲劇の内戦でしたが、戦場にならなかった北部の鉄工・火薬など諸工業に好況をもたらし、鉱山など資源開発を促し、70年代からのアメリカ資本主義興隆の基盤をつくります。岩倉一行も、米大陸の都市部に入るにつれて、産業資本の充実ぶりを実感したに違いありません。

    奴隷解放は名ばかり

     南北戦争がアメリカ社会にもたらした最大の変化は、およそ400万人の奴隷たちが解放され、自由の身になったことです。

     戦後の南部は、経済も財政も破綻に陥ったうえ、食糧難にもあえいでいて、「南部の再建」がジョンソン大統領に課せられます。ジョンソンは、南軍の指導者たちに恩赦を与え、南部の土地所有者は、憲法修正第13条(奴隷制度の廃止、65年成立)を支持するだけで土地を取り戻しました。「ブラック・コード」と呼ばれる黒人取締法も成立します。

     結局、南部に残った奴隷たちの多くは、土地は得られず、プランテーション(農場)での苦しい生活が続きます。奴隷解放は名ばかりのものでした。

     しかし、ジョンソンの「反動政策」に対し、黒人たちも黙っていませんでした。彼らの反対運動に米議会の共和党急進派などが呼応し、68年には、黒人に公民権を付与する憲法修正第14条を成立させ、70年には、選挙権を保障する憲法修正第15条も付け加えました。

     これを受け、アメリカ黒人は初めて選挙権を行使し、州議会に多数の黒人議員が送り出されました。69年から76年の間に、米議会には黒人の下院議員14人と上院議員2人がそれぞれ誕生します。さらに黒人の高等教育機関として「黒人大学」が相次いで設立されるのもこの時期のことです。

    • KKKの一団(米国議会図書館蔵)
      KKKの一団(米国議会図書館蔵)

     しかし、こうした動きに猛反対する活動が開始されます。攻撃の先頭に立ったのが、白人の秘密結社「KKK」(クー・クラックス・クラン)です。65年、テネシー州で少数の旧南軍士官らが結成したこのテロ組織は、三角帽の不気味な装束で、黒人たちを脅し、黒人の家を襲い、投票を暴力的に妨害しました。彼らのテロ活動は、70年頃にピークに達したといわれます。

     さらに南部諸州では、白人たちが、黒人を公共施設から閉め出すようになります。交通機関、公立学校、病院、電話ボックス、レストランなどで白人と黒人を隔離する政策が、州法や条例で法制化されます。

     加えて90年のミシシッピ州を手始めに、諸州において黒人の選挙権の剥奪が進みます。人頭税や読み書き試験を課して黒人を巧妙に排除し、黒人の権利はすっかり逆戻りしてしまいます。

     岩倉使節団はワシントン滞在中、「黒人学校」を視察しています。『米欧回覧実記』は、奴隷制度の由来と廃止の経緯を説明したあと、なかなか鋭い現状分析をしています。

     「白人たちは(黒人と)同列視されることを喜ばず、いまもなお人種間の隔ては歴然たるものがある。とはいえ、中には早々と自立した黒人もおり、現に下院議員に選出された傑出した人物もあるし、巨万の富を築き上げた名士もいる。皮膚の色と知能の優劣は無関係であることははっきりしている。だからこそ有志の人々は黒人教育に力を尽くし、学校を作るのである」

    【主な参考・引用文献】

    ▽ジェームス・M・バーダマン『アメリカ黒人の歴史』(森本豊富訳、NHKブックス)▽本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』(岩波新書)▽清水博『世界の歴史17 アメリカ合衆国の発展』(講談社)▽清水博編『世界各国史8 アメリカ史(新版)』(山川出版社)▽高崎通浩『歴代アメリカ大統領総覧』(中公新書ラクレ)▽老川慶喜『日本鉄道史 幕末・明治篇―蒸気車模型から鉄道国有化まで』(中公新書)▽毛利敏彦『幕末維新と佐賀藩』(中公新書)▽泉三郎『岩倉使節団』(祥伝社黄金文庫)▽久米邦武編著『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 アメリカ編』(水澤周訳注、慶応義塾大学出版会)▽ドナルド・キーン『明治天皇 二』(新潮文庫)▽ペリー『ペリー提督日本遠征記 下』(角川ソフィア文庫)▽高校教科書『明解 世界史A』(帝国書院)▽同『詳説 世界史B』(山川出版社)

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    2017年09月20日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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