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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <米欧回覧と文明開化>第7回~ビッグ・ベンと凱旋門

    英国の選挙権拡大

    • ウェストミンスター宮殿(英国会議事堂)。右端の時計塔が「ビッグ・ベン」。Parliamentary copyright images are reproduced with the permission of Parliament.
      ウェストミンスター宮殿(英国会議事堂)。右端の時計塔が「ビッグ・ベン」。Parliamentary copyright images are reproduced with the permission of Parliament.

     岩倉使節団は1872年(明治5年)9月4日、ロンドンのウェストミンスター宮殿(国会議事堂)を訪れます。『米欧回覧実記』は、時計塔とそこにつるされた巨大な時鐘(じしょう)(ビッグ・ベン)を紹介しながら、イギリスの議会政治についてリポートしています。それらは近現代の日本政治のお手本になるものです。

     19世紀のイギリス政治を見てみますと、選挙法が3度にわたって改正され、順次、参政権が拡大され、男子普通選挙(実現するのは1918年)へと向かっています。

     その最初の大改革は、1832年の第1次改正でした。

     住民のほとんどいない選挙区を廃止し、マンチェスターなど人口の増えた都市に議席を配分します。同時に、地主・貴族ら土地所有者だけに与えられていた選挙権の財産資格を緩和し、工場経営者や市民中間層にも選挙権を拡大するものでした。この結果、有権者はほぼ50%増加します。

     この選挙法改正は政治を変えることになります。

     まず、改正によって、自由に一票を投じる有権者が生まれて、国王や政府が、選挙を操作することができなくなり、内閣は国王から独立、首相の地位が非常に強化されます。そしてこれ以降、君主は、下院選挙で勝利を得た多数党の指導者が内閣を組織するのを承認しなければならなくなります。このルールは、権力者が遵守(じゅんしゅ)すべき「憲法習律(しゅうりつ)」となって議院内閣制が確立するのです(K・レーヴェンシュタイン『イギリスの政治』)。

     また次第に、産業資本家らが望んでいた自由貿易政策も実現されます。46年、安い穀物の輸入を禁止した穀物法の保護関税制度が撤廃され、49年には、輸入品は英国船または産出国の船に限るとしていた航海法が廃止されました。

    日本の「憲政の手本」

     しかし、第1次選挙法改正では、労働者たちに選挙権は与えられませんでした。

     当時、労働者は極めて劣悪な労働環境に置かれていました。1833年には、悲惨な境遇の年少者の労働時間を制限する工場法が制定されています。

     こうした中、労働者たちは「チャーチスト運動」という名の政治運動に立ち上がります。38年5月、男子普通選挙権や秘密投票制、議員の財産資格廃止などを盛り込んだ「人民憲章」を起草し、その実現を政府に要求する大規模な請願運動を繰り広げます。

     67年、第2次選挙法改正が紆余(うよ)曲折の末、保守党内閣の手で実現し、都市の賃労働者や手工業者らに選挙権が与えられました。有権者総数は247万人(全人口の1割)へと倍増します。

    • グラッドストン(大英図書館蔵)
      グラッドストン(大英図書館蔵)

     この選挙権の拡大により、自由党のグラッドストン(1809~98年)や、保守党のディズレーリ(1804~81年)のような市民階級出身の党首が誕生し、政党内閣も発足して政党の組織活動や選挙運動が活発化しました。

     イギリスの選挙では、以前から有権者に対する買収と脅迫が横行していました。67年の国会審議で、ある自由党議員は「選挙費用申告のウソと買収を調べれば、議員の半分は当選無効になるはず」と発言したといわれます。

     このため、選挙違反根絶に向けて、72年に秘密投票法、83年に腐敗・不正行為防止法が制定されました。誰に投票するかを係官に口頭で伝える投票方法は廃止され、買収などを行った候補者は、罰則としてその選挙区から永久に出馬できないことになりました。

     第2次グラッドストン内閣は84年、第3次選挙法改正を行い、これまで取り残されてきた農民や鉱山労働者に選挙権を与え、有権者は約440万人に増加します。

     議院内閣制、2大政党制、普通選挙権、選挙の腐敗防止などは、いずれも日本政治が憲政の基本として、今日まで取り入れてきたものにほかなりません。

    グラッドストンとディズレーリ

    • ディズレーリ(大英図書館蔵)
      ディズレーリ(大英図書館蔵)

     グラッドストンはリバプール生まれ。スコットランドにおいて貿易商として成功した父親の勧めにより、政界入りしました。ディズレーリはユダヤ人家系の出身で、小説家でした。いずれも、従来の指導者のように大地主・貴族の出身ではありませんでした。2人は、ライバルとしてしのぎを削り、典型的な二大政党政治を確立します。

     68年の総選挙では、自由党が、労働者階級の支持を背景に382議席(保守党は276議席)を獲得して勝利しました。敗退したディズレーリは、女王に辞表を提出し、後任にグラッドストンを推挙し、第1次グラッドストン内閣(68~74年)が発足します。

     自由主義者のグラッドストンは70年、アイルランド(01年、イギリスに併合)の小作人の権利を保護する土地法を成立させただけでなく、教育法を制定して公立学校を増設します。71年には労働組合法で組合の法的地位を認めるなど、矢つぎばやに改革を断行しました。

     グラッドストンはこれ以降、計4次にわたって内閣を組織し、首相在任期間は15年近くに及びました。92年に第4次内閣を発足させた時は83歳になっていました。

     これ対して、ディズレーリは、「近代イギリス史上、もっとも偉大な野党指導者」と言われるように、野党党首の時代が長いリーダーでした。

     それでも2度、政権を担当し、第2次内閣の75年には、スエズ運河(69年開通)の株を、ユダヤ系金融資本のロスチャイルド家から緊急融資をあおいで買収し、アジア航路を大幅に短縮しました。80年代、スエズ運河を通過する船舶の5分の4は、イギリスの船だったといわれます。77年にヴィクトリア女王が「インド皇帝」に即位するなど大英帝国外交を進めたのもディズレーリです。

    パリ・コミューン

    • 1881年頃のパリ。コンコルド広場からシャンゼリゼ通りを望む。中央奥が凱旋門(大英図書館蔵)
      1881年頃のパリ。コンコルド広場からシャンゼリゼ通りを望む。中央奥が凱旋門(大英図書館蔵)

     ロンドン滞在中の1872(明治5)年8月、木戸孝允は、普仏戦争後、帝位を追われてイギリスに亡命したナポレオン3世を列車内でみかけています。

     ルーブル宮殿などを建造し、道路・上下水道工事など大規模な都市改造によって美しいパリを造り出したのは、ナポレオン3世でした。岩倉使節団の一行が、街路のガス燈の光がゆらめくパリに到着したのは同年12月16日の日没後。

     久米邦武は、パリの第一印象をこう記しています。

     <月輪(げつりん)正二上リ、各都ノ風景、自ラ人目ヲ(うるわ)シ、店店二綺羅(きら)(美し衣服など)(つら)ネ、旗亭(きてい)(レストラン)ニ遊客(ゆうかく)(むらが)ル、府人(都の人々)ノ気風マタ、英京(ロンドン)ト趣キヲ異ニス>(『米欧回覧実記』)

    • ティエール(大英図書館蔵)
      ティエール(大英図書館蔵)

     「煤煙黒霧(ばいえんこくむ)」のイギリスから、大気爽快(そうかい)な「文明の中枢」フランスに到着し、使節団一行は、なんとも人心地がついたようです。使節団は、19世紀初頭、ナポレオン1世が戦勝記念に建設を命じた凱旋門(がいせんもん)近くに宿をとりますが、やがてこの門にも、パリ・コミューン時の生々しい弾痕を認めることになります。

     ナポレオン3世の第2帝政は、普仏(ドイツ・フランス)戦争に敗れて、70年9月に崩壊し、ティエール(1797~1877年)率いる臨時政府が成立しました。ティエールは、ドイツと仮の講和条約を結びますが、屈辱的な条約に抗議してパリの民衆(職人、小店主や労働者)が蜂起し、民兵組織の国民衛兵とともに各所にバリケードを構築、71年3月18日、パリを支配下に置きます。

    • パリ・コミューン側と政府軍との戦闘(大英図書館蔵)
      パリ・コミューン側と政府軍との戦闘(大英図書館蔵)

     1週間後には選挙が行われ、知識人や社会主義者らを中心とするパリ・コミューン議会が成立。同28日、史上初の労働者による革命的自治政府である「パリ・コミューン」が宣言されました。ティエールらはパリから脱出し、ベルサイユに移り、フランスに政府が二つ生まれます。

     ティエールの政府は、ドイツの捕虜になっていたフランス兵士を釈放してもらい、13万人の政府軍をもって5月、パリに突入して市街戦になります。「血の1週間」といわれる激烈な戦いでコミューン側は3万人が死亡し、コミューン政府は72日間で壊滅しました。ティエール政府側の死者は1000人足らずとされています。

    西園寺公望の目撃談

    • パリ留学時代の西園寺公望(立命館史資料センター所蔵)
      パリ留学時代の西園寺公望(立命館史資料センター所蔵)

     パリ・コミューンを直接、目撃した日本人がいました。のちに首相になる西園寺(さいおんじ)公望(きんもち)(1849~1940)です。

     西園寺は、公卿(くぎょう)の筆頭「五摂家(せっけ)」の次に位する「九清華(せいが)」の出身でした。戊辰戦争の会津攻防戦などに参加し、木戸ら新政権の中枢とも親しく交わっていました。

     西園寺は71年1月、留学のため米英経由でフランスに向かい、3月27日にパリに着きました。パリ・コミューンの成立宣言の前日のことでした。西園寺は、政府軍の5月総攻撃で「余の寓居(ぐうきょ)も戦場に係る」中、政府軍と「暴徒」(コミューン側)との血なまぐさい市街戦を日記に活写しています。

    • ボアソナード(法政大学史委員会所蔵)
      ボアソナード(法政大学史委員会所蔵)

     お雇い外国人として73年末に来日するフランスの法学者・ボアソナードは、当時、教えていたパリ大学近くのカルチエ・ラタンで、パリ・コミューンを体験しました。彼は、この時期に書いた本の序文に、「最後の戦いのさなかにおいては、法それ自体が、正に崩壊する寸前と思われたのであり、絶望してペンを取り落とさぬためには、法の不滅の支配への揺るぎない信仰が必要であった」と述べています。

    コミューンは「賊徒」

     ティエールは71年8月に大統領になりますが、73年にはルイ王朝の復活をめざす王党派から不信任を受けて退陣に追い込まれます。王党派と共和派の対立は、その後も続き、共和政の憲法制定とともに第三共和政が発足するのは、75年のことです。

     米欧使節団の岩倉らが、エリゼ宮でティエール大統領と会見したのは、72年12月26日でした。『回覧実記』は、パリ・コミューンを弾圧したティエールについて、「老練熟達の政治家」「ごく背の低い老人で、言葉遣いも容貌も温和なところがなかなか魅力的」と、好印象を伝えています。

    • マルクス
      マルクス
    • エンゲルス
      エンゲルス

     これは、マルクスがコミューン崩壊直後に公表した『フランスの内乱』で、ティエールについて、「公生活は忌まわしく、私生活は破廉恥(はれんち)」などと非難しているのとは対照的です。マルクスは、国際労働者協会(第1インターナショナル)の宣言の中で「労働者のパリは、そのコミューンとともに、新社会の光栄ある先駆者として、永久に(たた)えられるであろう」と、その歴史的意義を高く評価していました。

     これに対して、西園寺や岩倉使節団のメンバーは、コミューンは、政府に反旗を翻している「賊軍」「賊徒」とみていて、そこには当然ながら大きな落差がありました。

     イギリスやフランスでは、すでに社会主義思想が生まれていました。

     イギリスの工場経営者・ロバ-ト・オーウェン(1771~1858年)は、自ら工場法の制定に尽力し、フランスのサン・シモン(1760~1825年)やフーリエ(1772~1837年)も、労働者の待遇改善や団結を訴えていました。

     パリ・コミューン以前のフランス労働者に大きな影響を与えたのが、無政府主義を唱えたプルードン(1809~65年)でした。

     このあとに登場するのがドイツ出身のマルクス(1818~83年)とエンゲルス(1820~95年)です。2人は、オーエンやサン・シモン、フーリエの思想を空想的社会主義と呼び、労働者階級の革命運動によって社会主義を実現する科学的社会主義の理論を打ちたてました。

     また、史的唯物論に基づいて資本主義を考究した『資本論』は、67年にマルクスによって第1巻が世に問われたあと、マルクスの死後は、盟友エンゲルスによって、85年に第2巻、94年に第3巻が出版されました。

     日本で『マルクス・エンゲルス全集』(全27巻、改造社版)が刊行されるのは1928~35年のことです。我が国の資本主義が本格的に成立し、労働者たちのストライキが発生し、労働組合が組織され始めるのは1890年代の末。そしてマルクス主義の影響を受けた社会運動が最盛期を迎えるのは、同全集が刊行された時期とほぼ重なります。

    帝政ロシアの「脅威」

     岩倉使節団は、フランスのあとベルギー、オランダを訪問し、成立したばかりのドイツ帝国の首都・ベルリンに到着します。

     使節団の首脳陣が、当地で「鉄血宰相」のビスマルクや戦略家のモルトケらと会見し、彼らの「万国公法より力」の論理に感じ入ったことは、<維新政府、変革の序章>「ビスマルクとガリバルディ」の回で述べました。

     大久保や木戸は、アメリカ、イギリス、フランス3か国の訪問を通じて、日本と3か国との文明の落差を痛感しました。それだけに、使節団にとっては、後進国から急に勢いを増した新興国・ドイツは、日本にとって格好の近代化モデルと映ったようです。

     一行はこのあと、帝政ロシアに向かいます。

    • アレクサンドル2世(米国議会図書館)
      アレクサンドル2世(米国議会図書館)

     ロシアの皇帝アレクサンドル2世(1818~81年)は、クリミア戦争に敗れたあと、国内改革を志向し、61年、農奴解放令を出し、行政、裁判、教育、軍隊、財政など大改革を進めました。人口の大部分を占める農奴の法的な自由と土地所有を認めました。

     しかし、与えられた土地には地代が課せられ、その返済のために長期の負債を抱えたため、生活は一向に改善されませんでした。

     当時、ロシア都市部の若い青年・学生たちが「ヴ・ナロード(人民の中へ)」のスローガンを掲げ、農村に入って、農民を啓蒙(けいもう)しながら社会主義的改革をめざしました。だが、農民の同調は得られず、テロリズムやニヒリズムに走る活動家も現れます。

     アレクサンドル2世は、オスマン帝国下のボスニア・ヘルツェゴビナにおける農民反乱を機に、77年にオスマン帝国に宣戦して勝利します。サン・ステファノ講和条約で、ブルガリア国の成立をオスマン帝国に認めさせますが、オーストリア、イギリスの反対と、ドイツのビスマルクの調停により、断念させられます。南下政策の野望を阻止されたアレクサンドル2世は81年、ナロードニキ(人民主義者)に暗殺されてしまいます。

     岩倉使節団がアレクサンドル2世に謁見したのは73年4月のことでした。

     『回覧実記』は、ロシア国総説の中で、「(その)政ハ専制ノ下ニ圧セラレ、其化(教育や文化)ハ古教(古い宗教)ノ内ニ迷ヒ、其富ハ豪族ノ手ニ収メラレ、人民ノ一般ノ開化ハ、(なお)半開の地位ヲ免レズ」と述べ、日本と同じように「半開の国」としています。

     当時、日本は英仏よりもロシアを恐れていました。北から南下をうかがい、帰属問題でもめる樺太ではトラブルが絶えず、日本政府にとって帝政ロシアは脅威の存在でした。

     しかし、『回覧実記』は、ロシアに恐怖心を抱くのは、1804年に来日した、ロシア使節・レザノフによって「鎖国ノ夢ヲ驚破(きょうは)(びっくりさせること)」され、日本国民に「露国ヲ(はばか)ルノ妄想(もうそう)」が生まれたためだと指摘。この際、そのような「妄想(もうそう)虚影(きょえい)」の論は排斥(はいせき)し、精神を澄ませて国の外交上の進路を考えるよう求めていました。

    【主な参考・引用文献】

    ▽田中彰『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか』(岩波新書)▽同『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽升味準之輔『比較政治 西欧と日本』(東京大学出版会)▽木畑洋一・秋田茂編著『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房)▽小林章夫『イギリス名宰相物語』(講談社現代新書)▽川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』(有斐閣アルマ)▽K・レーヴェンシュタイン『イギリスの政治―議会制民主主義の歴史』(阿部照哉訳、潮新書)▽木下広居『英国議会』(潮新書)▽久米邦武編『特命全権大使 米欧回覧実記(二)(三)(四)』(岩波文庫)▽久米邦武編著『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記 イギリス編』『同 ヨーロッパ大陸編(上)(中)』(慶応義塾大学出版会)▽柴田三千雄『パリ・コミューン』(中公新書)▽谷川稔ほか『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』(中央公論新社)▽大久保泰甫『日本近代法の父 ボワソナアド』(岩波新書)▽岩井忠熊『西園寺公望―最後の元老―』(同)▽木村毅『西園寺公望』(時事通信社)▽マルクス『フランスの内乱』(岩波文庫)」▽鹿野政直『近代日本思想案内』(岩波文庫)▽浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫)▽浅野典夫『「なぜ?」がわかる世界史』(学研教育出版)▽高校歴史教科書『詳説世界史B』(山川出版社)

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    2017年11月29日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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