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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第2回~西郷隆盛は征韓論者か

    西郷の手紙

     三条実美・太政大臣は1873(明治6)年8月、避暑のため箱根に滞在中の明治天皇を訪ね、閣議で内定した西郷隆盛の朝鮮派遣について上奏しました。これを受けて天皇は、米欧使節団の岩倉具視・右大臣の帰朝を待って「熟議」し、そのうえで改めて報告するよう命じます。

    • 三条実美(国立国会図書館ウェブサイトから)
      三条実美(国立国会図書館ウェブサイトから)

     一体、西郷隆盛が、この時期、突然、朝鮮行きを希望したのは、なぜだったのでしょうか。

     その手がかりになるのが、西郷が、参議・板垣退助にあてて書いた手紙です。この時期に出された9通が残されています。

     その最初の手紙(7月29日付)は、このように書かれていました。

     「朝鮮に当方から出兵するとなると、必ず相手は撤兵を要求するに違いない。こちらが撤兵を拒めば、兵端(戦端)が開かれ、最初の御趣意(趣旨)に反する。したがってまず、公然と使節を差し向けるのがいいのではないか。そうすれば、朝鮮側は必ず暴挙に出るはずで、討つべき(開戦)の名(目)も確かに成り立つ。使節は暴殺されると思われるので、なにとぞ、私(西郷)の派遣を伏してお願いする。(清国に出張した)副島君(種臣・外務卿)のような立派な使節はできなくても、死する(くらい)の事はできると思うのでよろしくお願いしたい」

     文中の「最初の趣旨」とは、何を意味するのか。

     それは、明治元年以来の朝鮮政策の基本方針、すなわち、使節を朝鮮に派遣して、「昔からの隣交のよしみで公理公道をもって交渉を尽くすが、それでもなお朝鮮が聞き入れない場合は征討する」という方略(ほうりゃく)です。かつて「征韓論(せいかんろん)」を唱えた木戸孝允の朝鮮遣使論を引き継ぐものでした。(川道麟太郎『西郷隆盛』)。

     西郷は、閣議で自らの派遣が内定したことを大変喜びました。内定直後の板垣への手紙には、「もう横棒(横槍(よこやり))の憂いもこれあるまじく、生涯の愉快この事に(そうろう)」と記していました。

    非征韓論者説

     西郷は、8月17日の板垣への手紙で、「戦いは二段」からなるとしています。まず、第1段階で、使節派遣から暴殺に至れば、「天下の人」(一般国民)は「討つべきの罪」を知るので、ここに至って第2段階の戦争に入る、という主張です。これからいえば、彼は明らかに「征韓」論者です。

     しかし、この見方に対して異論を唱えたのが、維新期のさまざまな政治家像を提示してきた歴史学者の毛利敏彦氏でした。その著書『明治六年政変』(1979年刊)は、二つの理由を挙げて、西郷を非征韓論者としています。

     その理由の第1は、使節派遣を先行すべきだとしていた西郷は、即時派兵論に賛成した板垣を説得し、自分への支持を得るためのテクニックとして、使節暴殺論を持ち出した。

     第2は、1864年の第1次長州征討や、68年の徳川慶喜追討でも、西郷は、まず強硬姿勢を示して実力行使の準備を進めながら、交渉による解決策を探り、最後は自ら乗り込んで穏便に落着させていた――というものです。

     つまり西郷は、73年の夏~秋には征韓の即時決行を期してはおらず、その真意は、西郷が10月15日の閣議に提出した「始末書」に述べられているとしています。

     始末書は、これまでの経緯をまとめたもので、朝鮮とは「是非交誼(こうぎ)を厚く成される御趣意を貫徹いたすようありたく」などと記されており、西郷はあくまで交渉による朝鮮との修好を求めていたというわけです。

     少し話はそれますが、後年、「西郷は征韓論者にあらず」と主張した政治家がいました。幕末の江戸無血開城交渉で、西郷のカウンターパートだった勝海舟です。

     勝は、その根拠として、75年、日本が朝鮮に軍艦を送って挑発し、砲撃を誘って報復攻撃に出た江華島(カンファド)事件の際、「向こうが撃ってきたから撃ち返したでは、天理において恥ずべき行動だ」と、道理を尽くさない武力行使に西郷が憤慨していた事実を挙げていました。

    維新のやり直し

    • 軍人姿の山県有朋の銅像=山口県萩市観光協会提供
      軍人姿の山県有朋の銅像=山口県萩市観光協会提供

     西郷が「朝鮮使節」を急に言い出したのは、いくつかの要因がありました。

     その一つにロシア問題が指摘されています。

     西郷は、南下を続けるロシアとは、いずれ戦争になるとみて、それに備える意味でも朝鮮問題の早期解決を考えていたというのです。

     さらに、大きな理由として挙げられるのが士族対策です。

     西郷は、板垣への8月17日の手紙の中で、「内乱を(こいねが)う心を外に移して、国を興すの遠略(遠大な謀りごと)」という言葉を使っています。

     これは、征韓論問題のキーワードといえ、内乱の可能性もある中、士族たちの不満を外にそらし、あわせて国威を海外に発揚することと解釈できます。

     確かに、留守政府の責任者だった西郷は72年、陸軍大輔(たいふ)山県(やまがた)有朋(ありとも)が進める兵制改革に薩摩出身の近衛兵が反発する中、自分は「破裂弾中に昼寝」だと、外遊中の大久保に伝えていました。陸軍元帥(げんすい)兼参議兼近衛都督の西郷は、近衛兵の暴発を懸念し、相当な緊張を強いられていたようです。

     しかし、征韓論が単なる不平士族らのガス抜きのためというのは短見に過ぎます。

     70年8月、旧薩摩藩士の横山安武(やすたけ)(森有礼(ありのり)の実兄)が、「新政府大官の侈靡驕奢(しびきょうしゃ)(おごりぜいたくすること)」などを厳しく批判する建白書を提出、太政官の門前で割腹する事件がありました。西郷はその志を大いに(たた)えて顕彰碑に揮毫(きごう)しています。

     歴史家の萩原延壽氏は、この西郷のキーワードに関して、その「『内乱を冀う心』の持ち主は、だれよりもまず、他ならぬ西郷自身ではなかったろうか」と指摘し、「朝鮮問題こそ、皮相な『文明開化』に充足する日本人に覚醒の機会をあたえ、再度の革命の引き金になろうと、西郷の夢想はふくらんでいったようである」(『遠い崖』)と書いています。

     西郷は自らの朝鮮行きを「第一憤発の種蒔(たねま)き」と表現していました。朝鮮問題を機に、西郷はもう一度、明治維新をやり直そうと考えていたとみられるのです。

    「大義ある死」切望

     西郷は、「守旧派」の島津久光の執拗(しつよう)な要求にも辟易(へきえき)していました。加えて、深刻な健康問題が大きな影を落としていました。

     西郷は73年8月3日の板垣への手紙に、「(三条)公へ参殿すると申し上げておきましたが、数十度の(くだ)し方にて、はなはだ疲労いたしましたので、(建言書を)別紙のとおり(したため)ましたので……」と、体調不全を訴えています。

    • 若い頃の板垣退助(国立国会図書館ウェブサイトから)
      若い頃の板垣退助(国立国会図書館ウェブサイトから)

     西郷は同年5月ごろから、5尺9寸余、29貫=約180センチ、100キロ超の肥満体に異常をきたしていました。政治家の健康状態が、政治決断に多大な影響をもたらすことは、古今東西の歴史が教えるところで、西郷も例外ではなかったようです。

     西郷の板垣への手紙(8月23日付)には「死を見ることは帰する如く」「死を急ぎ候義は致さず」「死する前日(まで)は」など<死>の文字が頻発しています。

     板垣への最初の手紙にあった「死する位の事はできる」――をはじめとした西郷の言葉から、西郷は朝鮮特使の任務で「大義ある戦死」を切望していたという見方は少なくありません。そして、西郷の言う「暴殺」とは、朝鮮側に殺されるのではなく、西郷の「自決」であるとする研究者もいます。当時、西郷は「尋常ではない精神状態」にあったようです。

     こうしてみてくると、「征韓」を口にしてこなかった西郷が、突如、朝鮮使節を望んだのは、朝鮮開国やロシア問題、士族対策、健康状態と「死」への渇望、維新をやり直す「第2の維新」など、実にさまざまな要因があったことがわかります。

     さて、西郷は果たして「非征韓論者」だったのでしょうか。

    • 京都御苑の蛤御門。門柱などには弾痕の跡が残る(京都市上京区)
      京都御苑の蛤御門。門柱などには弾痕の跡が残る(京都市上京区)

     その説の論拠とされた始末書に関して、歴史学者の猪飼隆明氏は、長州勢が京都に攻めのぼった「蛤御門(はまぐりごもん)の変」(1864年)のとき、薩摩兵を陣頭指揮して戦った西郷がこれと「(うり)二つ」の戦術(長州兵の引き揚げを命じ、それを聞かなければ罪状を明記して追討する)をとったことを挙げ、使節派遣は朝鮮派兵のための正当性と大義名分づくりだったとしています。(猪飼隆明『西郷隆盛』)

     また、幕末維新史が専門の家近良樹氏は、近著『西郷隆盛』で、次のような趣旨を述べています。

     <西郷が、征韓を決行することにより、維新遂行上不可欠の『戦いの精神』を復活させようと目論(もくろ)んだとしても不思議ではなかった。もっとも、西郷が征韓論的な言を吐いたとしても、それは後年の軍国主義者が唱えた征韓論などとは、かなり様相を異にするものであった。朝鮮を植民地として確保し、同地を足掛かりに大陸への進出を図るといったレベル(侵略主義そのもの)の構想はとうてい持ちえていなかった>

     これは、朝鮮使節を志願した時点の西郷は、征韓論者だったと判断せざるを得ないが、後年の軍国主義者と同一視できないということなのでしょう。

    大久保、参議に就任

     ともあれ、西郷の征韓論は、岩倉使節団帰国後の政局に大波乱を巻き起こします。

     73年9月13日、米欧回覧から横浜に帰り着いた岩倉は、三条と会談し、留守中に山積した懸案解決のため、大久保利通の参議起用で一致します。同じく帰国組の伊藤博文は、三条、岩倉、木戸、大久保の結束固めのため、関西旅行から東京に戻った大久保への働きかけを強めます。

     同月下旬、西郷をはじめ副島種臣らが朝鮮使節問題の閣議開催を三条と岩倉に強く要求します。これに対して、木戸や伊藤らが西郷の使節派遣を阻止する動きを活発化させます。征韓問題がまさに政局の焦点に浮上し、大久保の参議起用とも絡みます。

     大久保は10月8日、西郷との衝突を避けるために拒み続けてきた参議就任を引き受けます。内治を優先させる以上、西郷はじめ対外強硬派を排除しなければならない。そのためには、西郷との全面対決も辞さない覚悟を決めたのです。

     参議受諾にあたり、大久保は、西郷の使節派遣の延期方針について、三条と岩倉が中途で変説しないよう、念押しの約定書をとりました。また、西郷と決裂すれば、不平士族らの反感を呼び、自ら命を落とすこともあるとみた大久保は、息子たちに「遺書」をしたためます。

    西郷と対決へ

    • 大久保利通(国立国会図書館ウェブサイトから)
      大久保利通(国立国会図書館ウェブサイトから)

     大久保は、西郷の遣使問題を次のように整理していました。

     <西郷の主張は、国家運営に必要な深謀遠慮を欠いている。維新以来なお日も浅く、政府の基礎はいまだ確立していない。戦争が勃発すれば、士族・農民の反乱を誘発し、軍事費もかさんで一層の財政赤字と輸入超過をもたらす>

     <無用の戦争は、幾多の生命を損ない、政府創造の事業(富国強兵・殖産興業)を道半ばで廃絶させることになる>

     <対外的に最も警戒すべきはロシアであり、朝鮮との戦争はロシアに漁夫の利を与えてしまう。イギリスへの負債返済が困難になれば、これを口実にしたイギリスの内政干渉を招く>

     <日本は欧米各国との不平等条約下にあり、イギリス、フランスの軍隊が日本に駐屯している。日本は属地のようであり、早く条約を改正し、独立国の体裁を全うするのが先決である>

     大久保は、以上の内容を7か条にまとめます(毛利敏彦『大久保利通』)。

     そして「今国家の安危を顧みず、人民の利害を計らず、好みて事変を起こす」西郷使節派遣に強く反対します。

    【主な参考・引用文献】

     ▽家近良樹『西郷隆盛―人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)▽同『西郷隆盛 維新150年目の真実』(NHK出版新書)▽井上清『西郷隆盛(上)(下)』(中公新書)▽毛利敏彦『明治六年政変』(同)▽同『大久保利通』(同)▽先崎彰容『未完の西郷隆盛―日本人はなぜ論じ続けるのか』(新潮選書)▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄10 大分裂』(朝日文庫)▽猪飼隆明『西郷隆盛―西南戦争への道』(岩波新書)▽川道麟太郎『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(ちくま新書)▽姜範錫『征韓論政変―明治六年の権力闘争』(サイマル出版会)▽勝田政治『<政事家>大久保利通―近代日本の設計者』(講談社選書メチエ)▽同『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)▽松浦玲『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書)▽井上清『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)▽佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)▽加来耕三『西郷隆盛100の言葉』(潮新書)▽宮内庁『明治天皇紀 第三』(吉川弘文館)

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    2018年02月14日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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