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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第3回~「大久保政権」の成立

    西郷が押し切る

    • 西海騒揺起原征韓論之図=右部分(国立国会図書館ウェブサイトから)
      西海騒揺起原征韓論之図=右部分(国立国会図書館ウェブサイトから)

     1873(明治6)年10月11日、西郷隆盛は、太政大臣・三条実美に手紙を出します。もし自らの朝鮮派遣が中止されれば、それは「勅命(ちょくめい)軽視」にあたり、自分は「死を(もっ)て国友(鹿児島士族ら)へ謝」するしかないと、自殺をほのめかしていました。三条は、この書面に相当な風圧を感じたはずです。

     その3日後の14日、朝鮮使節派遣が閣議にかけられました。出席者は、三条、右大臣の岩倉具視、参議の西郷、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平、大木(おおき)喬任(たかとう)、新たに参議に任命された大久保利通と副島種臣(そえじまたねおみ)の計10人でした。木戸孝允は病気欠席でした。

     閣議では、西郷が8月17日の閣議決定(自らの朝鮮派遣)の再確認を求めます。これに対して、三条と岩倉は、「樺太での紛争解決が先だ」「戦争準備が不足している」などとして反対し、遣使の延期を求めました。

     大久保は、西郷の派遣が開戦に直結し、日本の財政や内政、外交上の困難をもたらすとして同じく「延期」を主張しました。

     こうして議論は「延期」で収束しそうでしたが、西郷がひとり「即時派遣」を力説して抵抗をみせ、その日は結論を持ち越しました。

     10月15日に再開された閣議では、副島と板垣が西郷の派遣を決定するよう断固要求します。参議の中では、大久保だけが派遣延期を訴えて孤立し、最後は三条と岩倉に一任されます。西郷は、この日の閣議は欠席していたようです。

     三条と岩倉が話し合い、三条は、西郷の派遣賛成に回ります。大久保との「約定(やくじょう)」(約束)に反して変説したのです。西郷の派遣が延期されれば、西郷の進退問題につながり、近衛兵など陸軍が暴走することを恐れたためといわれます。

     大久保もこれ以上、異議を唱えず、結果的に全会一致で西郷の「即時派遣」が決定されます。

     17日早朝、大久保は三条邸を訪問して参議の辞表を提出しました。三条は、大久保の憤怒(ふんぬ)と、岩倉が辞意を表明して大久保側についたことに大きなショックを受け、にわかに昏倒(こんとう)人事不省(じんじふせい)に陥ります。

     しかし、この三条の「発病」が閣議決定の上奏(天皇に申し上げること)を遅らせ、大久保らによる「どんでん返し」を可能にすることになります。

    大久保のどんでん返し

     大久保は19日の日記に、形勢挽回(ばんかい)のための「(ただ)一ノ秘策アリ」と記しています。大久保は同日、その秘策を腹心の開拓次官・黒田清隆に与え、逆襲へ大きな賭けに出ます。

     それは、宮中工作によって、閣議で正式に決まった西郷派遣を阻止する策謀でした。

     職制上、太政大臣が欠席する場合は、左・右大臣が職務を代行するのがルールです。当時は、左大臣が欠員のため、右大臣・岩倉が太政大臣代理に就くことになり、その人事が同日の閣議で決まります。これにより、天皇に上奏するのは、三条から岩倉に替わりました。

     そこで大久保と岩倉は、閣議決定の即時派遣論と、岩倉自らの見解として延期論を併せて上奏し、「天皇に対立意見を判断させる形式をとって閣議決定を葬り去る」という策を練り上げます(勝田政治『<政事家>大久保利通』)。

    • 西海騒揺起原征韓論之図=中央部分(国立国会図書館ウェブサイトから)
      西海騒揺起原征韓論之図=中央部分(国立国会図書館ウェブサイトから)

     このため、黒田が同じ薩摩出身の宮内少輔(しょうゆう)吉井(よしい)友実(ともざね)を通じて、宮内卿の徳大寺(とくだいじ)実則(さねつね)に根回しし、徳大寺は20日、延期論が裁可されるべく、明治天皇に「秘密上奏」をしたとされます。

     22日、岩倉邸で西郷、板垣、副島、江藤の4参議は、岩倉に対して西郷即時派遣の閣議決定の早急な上奏を求めましたが、岩倉は「即時派遣」と「延期」の両論を上奏するとして、これを突っぱねました。 

     岩倉は23日、明治天皇に上奏し、裁断を仰ぎました。天皇は即答を避け、翌24日、西郷派遣延期論を受け入れる勅書を出します。

     岩倉、大久保らは、無法・違法な手続きによって「明治六年政変」を制したのです。

    明治政府の大分裂

     大久保らの策略によって朝鮮使節を阻止された西郷は、10月23日、天皇裁可の結果を待たずに、病気を理由に陸軍大将近衛都督兼参議の辞表を提出しました。明治天皇に直訴することもしませんでした。

     翌24日、西郷は、「陸軍大将」の職を除いて解任されます。

     同じ日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も辞表を提出し、25日、受理されました。明治政府は、閣僚の半数がいっせいに追放されるという大分裂に至ったのです。

     陸軍少将の桐野(きりの)利秋(としあき)、同じく少将で近衛局長官・篠原国幹(しのはらくにもと)ら西郷系の武官・文官600余人があとを追って辞職し、西郷とともに鹿児島へ帰ります。

    明治六年政変とは

    • 徳富蘇峰(国立国会図書館ウェブサイトから)
      徳富蘇峰(国立国会図書館ウェブサイトから)

     この明治六年政変を「維新史の山」と評したのは、著作家の徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)でした。蘇峰は、その発端を米欧回覧の岩倉使節団にみていました。

     「()し岩倉、木戸、大久保、伊藤(博文)の明治四年末より、明治六年の秋まで米欧諸国の巡回が無かったならば、征韓論の破裂を見るに至らなかったかも知れない。(あるい)は対立や、衝突はありえても、何とか交譲(こうじょう)(互いに譲り合うこと)、妥協の地を見出したであろう」(『近世日本国民史』)と書いています。

     これに対して、『征韓論政変』の著者である姜範錫(カンボムソク)・元駐日韓国公使は、使節団派遣それ自体ではなく、大久保と伊藤が、政治的野心に燃え、予定外の条約改正交渉を試みようと、全権委任状をとりに一時帰国、本隊を4か月もアメリカに足止めさせたことが政変の誘因だとしています。それがなければ、使節団は当初計画通り、明治5年初秋には帰国し、留守政府は、使節団側と交わしていた「約定」違反の行動には出なかったろうというわけです。

     岩倉使節団の外遊中、留守政府と使節団のメンバーの双方に、さまざまな齟齬(そご)(ゆきちがい)が生じていました。使節団からみると、留守政府の開化策は、財政事情を顧慮しない、あまりに急進的なものだという不満がありました。

    • 西海騒揺起原征韓論之図=左部分(国立国会図書館ウェブサイトから)
      西海騒揺起原征韓論之図=左部分(国立国会図書館ウェブサイトから)

     これに対して、留守政府の首脳陣は、中央集権体制の確立や軍事力の整備に向け、廃藩置県のフォローアップや徴兵令などを遂行。それに伴う士族たちの不満を背景に、「国威」を海外に広げようとする征韓論がクローズアップされてきたのです。

     これに対して、外遊で日本と米欧各国との国力の差を痛感してきた岩倉使節団の主要メンバーが、征韓論について「今はその時ではない。国政を整え民力を養成することこそ、最優先の課題だ」と主張したのも、当然のことでした。

     外交政策が、純粋にそれのみで争われることは、古今、まれです。外政は内政の延長であり、征韓論をめぐる対決も、国内政策をめぐる対立が絡んでいました。

     同時に、外交問題は、政治家たちの権力闘争の具にされがちです。明治六年政変も、その例外ではありませんでした。

     「征韓論政変」とも言われるように、この政争は、西郷の「征韓論」を契機に、岩倉使節団チームが、留守政府のチームから政権運営の主導権を奪回しようとした権力闘争にほかなりませんでした。

     三条、岩倉、大久保、木戸らが、「政見」を異にした西郷、板垣、江藤、副島、後藤らを政権から追い出したのです。

     この熾烈(しれつ)な権力ドラマで注目すべきは、司法卿・江藤の失脚でした。これで江藤による汚職摘発に苦しんでいた長州閥が大いに助けられました。この政争のひとつの性格をここに読み取ることができます。

    両雄の決別

     両チームの頭目の大久保と西郷は、73年5月、大久保が米欧回覧から帰国した当初こそ、往来がありましたが、次第に距離が生じました。

     岩倉使節団で条約改正に失敗した大久保は、失意の底にあったともいわれます。しかし彼は、米欧体験を踏まえて、政府主導の殖産興業によって日本に資本主義を導入するための、国家富強プランをあたためていました。その「内治優先」論に真っ向からぶつかるのが、西郷の「征韓論」でした。

     西郷にはもちろん、欧米の歴史や地理の知識はありました。ただ、「欧米諸国は道ならずして人の国を奪う」などと、鋭い欧米批判を隠そうとしませんでした。

     これに対して、大久保は、帰国後、日常の起居まですっかり欧米流に染まっていきます。両人には、西洋趣味や文明観で大きな違いがあったのかもしれません。

    • 1965年10月16日付読売新聞朝刊紙面より
      1965年10月16日付読売新聞朝刊紙面より
    • 海音寺潮五郎(かごしま近代文学館所蔵)
      海音寺潮五郎(かごしま近代文学館所蔵)

     西郷と同じ鹿児島出身で、明治34年生まれの作家・海音寺(かいおんじ)潮五郎(ちょうごろう)氏の小説に『西郷と大久保』(1965年10月~66年6月まで読売新聞で連載)があります。

     その終わりのほうで、西郷が岩倉邸を訪ね、西郷派遣の閣議決定の上奏を迫って決裂し、屋敷の門を出る(1873年10月22日)、こんなシーンがあります。

     <西郷は一同をふりかえった。微笑して言った。

     「(岩倉)右大臣な、ようふんばりもしたなァ。あっぱれでごわした」

     かくして、征韓派の惨敗で、征韓論は決裂した。

     この日帰途、西郷は(みち)をまげて大久保の(やしき)を訪れた。大久保は来合せていた伊藤博文と碁を打っていた。

     西郷は通されてその座敷に来るなり、「(大久保)一蔵どん、今日これこれで、わしは負けた。いずれ国に帰るから、後のことはおはんに頼むぞ」

     すると、大久保はむっとした顔になり、「わしが一人でどう出来るものでごわすか。大事な時には、いつも国にもどってしもうて。わしは知らんぞ」

     西郷は(おお)きな()をしずめて、大久保を凝視した後、「お邪魔でごわした。伊藤さんもごめん」と言って、立去った>

     政治家や革命家同士の関係は、権力欲や嫉妬心、利害対立、路線選択、時流や世論によって離合を繰り返すものです。

     西郷・大久保についても、確かに「竹馬の友」「盟友」「同志」であったことは間違いありません。しかし、二人はやがて「ライバル」的な存在になり、ともに国家中枢の責任ある立場に置かれました。やはり決別は免れなかったようです。

     この小説に描かれた西郷と大久保の場面は、史実ではこの日でなかったようですが、これが二人にとって最後の顔合わせになりました。

    「内務省」を新設

     征韓派参議の辞任を受け、大久保は、73年10月25日、参議自ら国政の実務を担う参議(さんぎ)省卿(しょうきょう)の兼任制を打ち出します。後任人事はこれに(のっと)って行われました。

    • 明治10年(1877年)頃の内務省(ジャパンアーカイブズ所蔵)
      明治10年(1877年)頃の内務省(ジャパンアーカイブズ所蔵)

     伊藤博文、勝海舟、寺島(てらしま)宗則(むねのり)が新たに参議に就任し、伊藤は工部卿、勝は海軍卿、寺島は外務卿をそれぞれ兼務します。伊藤は、今回の政変の舞台裏で、岩倉、木戸、大久保との間を走り回り、非征韓派の結束に努めたことが評価されました。

     大隈重信は参議兼大蔵卿、大木喬任は参議兼司法卿に就きます。参議の大久保は11月に、内務卿を兼任。74年1月には、木戸参議が文部卿を兼ねます。

     大久保は、73年10月25日、大隈、伊藤と会談し、大久保を中心にして大隈と伊藤が両脇を固める新体制づくりで一致しました。

     これらの刷新人事により、岩倉使節団の帰国前、薩摩1(西郷)、長州1(木戸)、土佐2(板垣、後藤)、肥前3(大隈、大木、江藤)だった参議の構成は、薩摩2(大久保、寺島)、長州2(木戸、伊藤)、その他3(大隈、大木、勝)に変わりました。土佐は消え、政変で大久保側に密着した大隈、大木は、新薩長連合(西郷一派を除く薩派と長派の連合)に組み込まれたかたちです。(『征韓論政変』)

     大久保の上には、三条太政大臣や岩倉右大臣がいましたが、最終判断は、大久保に委ねられることが多く、ここに事実上の「大久保政権」が成立しました。

     大久保は11月10日、「国内の安寧、人民保障の事務を管理する」として内務省を設置しました。同省の任務は、殖産興業の育成と全国警察権の掌握でした。新しい警察制度は、川路(かわじ)利良(としよし)(1834~79年)らがヨーロッパをモデルにして導入にあたり、74年1月、内務省直轄の警視庁が東京に設置されます。

     初代内務卿の大久保は、同省を拠点に、日本の早急な産業化をはかるための諸政策を展開します。これについては、本連載の<米欧回覧と文明開化 第6回>『大久保利通と資本主義』を読んでいただきたいと思います。

     なお、内務省は1947年に廃止されるまで、警察・地方行政・選挙など内政を管轄する、国の中枢官庁として長らく存続することになります。

    【主な参考・引用文献】

     ▽勝田政治『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)▽同『明治国家と万国対峙』(角川選書)▽家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)▽毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書)▽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄10 大分裂』(朝日文庫)▽姜範錫『征韓論政変―明治六年の権力闘争』(サイマル出版会)▽川道麟太郎『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(ちくま新書)▽井上清『西郷隆盛(上)(下)』(中公新書)▽同『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)▽松浦玲『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書)▽先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書)▽落合弘樹『秩禄処分』(中公新書)▽海音寺潮五郎『西郷と大久保』(新潮文庫)▽司馬遼太郎『歳月(上)(下)』(講談社文庫)

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    2018年02月28日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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