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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第4回~野党の反撃、武家の解体

    岩倉襲撃事件

     大久保利通政権は、「明治六年政変」で()に下った“野党”(反政府派)の反撃にさらされます。

     その一つは士族たちによるテロと武力反乱であり、もう一つは、民権派の国会開設要求でした。

    • 岩倉具視(五百円紙幣から)
      岩倉具視(五百円紙幣から)

     1874(明治7)年1月14日夜、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)が東京・赤坂の仮皇居から馬車での帰途、喰違(くいちがい)坂で、数人の刺客に襲撃されます。

     明治時代の実話を集めた『明治百話』(篠田鉱造著)の中にある『岩倉(きょう)を背負った話』によりますと、遭難劇は以下のようでした。

     <当時、岩倉公と申したら、天下無双(むそう)(やかま)しやで、世間からも狙われる人物でしたから、警戒も(こと)(ほか)厳重でした。刺客(しかく)は、一刀を抜くや馬車馬の脚を()って馬車を停め、車内に斬り込んだので、卿は暗殺されたに違いない、という知らせです。御所の宿直だった私たちが駆けつけると、肝腎(かんじん)の卿の胴体がない。

     提灯(ちょうちん)を振って土堤(どて)の上から水際を照らすと、卿が九死を免れて水中に隠れておられた。羽織袴(はおりはかま)の博多の(おび)(やいば)に深く斬り込まれていて、これがまったくお身代(みがわ)りでした。卿が土手からズルズルと御濠(おほり)にはまったところに、運良く岩があってそれが卿を助けたのも、浦島(太郎)の亀の甲みたいで不思議な因縁でした>

     犯人は、高知県士族の武市(たけち)熊吉(くまきち)らで、征韓の閣議決定を葬った岩倉らに憤激して犯行に及んだといわれます。

     このテロ事件は、政府首脳らを震撼(しんかん)させます。政府は、警視庁の川路利良(かわじとしよし)・大警視に犯人検挙を厳命しました。犯人9人が逮捕され、7月には早くも、ことごとく斬罪(ざんざい)に処せられました。

    佐賀の乱

     当時、鹿児島、山口、高知、佐賀などでは不平士族が不穏な動きをみせていました。前参議・江藤新平の地元佐賀では、政変後の73年12月、征韓論の貫徹と第二の維新を唱える「征韓党」が結成されます。

     同党幹部が東京に江藤と副島種臣を訪ね、郷党の指導にあたってほしいと求めます。二人とも反乱を鎮めるため帰省しようとしますが、板垣退助が押しとどめ、結局、江藤だけが、民撰(みんせん)議院設立建白書への署名をすませた直後、佐賀へと旅立ちます。

    • 佐賀城鯱(しゃち)の門、「佐賀の乱」の時の弾痕が残る。下は、佐賀の乱を伝える錦絵「大蘇芳年作 皇国一新見聞誌 佐賀の事件」=佐賀県武雄市提供
      佐賀城鯱(しゃち)の門、「佐賀の乱」の時の弾痕が残る。下は、佐賀の乱を伝える錦絵「大蘇芳年作 皇国一新見聞誌 佐賀の事件」=佐賀県武雄市提供

     他方、薩摩の島津久光を盟主と仰ぐ「憂国党」という士族集団もありました。彼らは、北海道開拓判官(ほうがん)、侍従、秋田県権令(ごんれい)などを歴任した島義勇(しまよしたけ)(1822~74年)をトップに担ぎました。

     74年2月1日、憂国党の士族が、家禄(給与)の遅配に(いら)立って、公金を扱っていた小野組の支店を襲うと、政府は熊本鎮台(ちんだい)に佐賀への出兵を命じます。

     これに対して16日、江藤の征韓党と島の憂国党がともに決起し、約2500の大軍をもって佐賀城を攻めとり、大久保が任命したばかりの佐賀県権令・岩村高俊(いわむらたかとし)を敗走させました。

     大久保は19日、佐賀鎮圧の全権を帯びて九州・博多入りし、ここに本営を置きます。同日、佐賀県下に暴徒征討令が布告され、翌20日、政府軍が出撃します。

     政府軍の攻勢に江藤は、征韓党軍を解散して脱出。島はその後も抗戦の指揮をとり、政府軍と激戦を続けました。3月1日、佐賀城は平定されます。

     江藤は退去後、鹿児島に西郷を訪ねて助力を求めましたが、西郷は応じませんでした。江藤は諦めて四国・宇和島にわたり、高知に潜行します。しかし、同月28日、土佐・阿波(徳島)の国境で逮捕されました。

    江藤「悲運の末路」

     江藤は、佐賀に護送され、裁判に付されます。権大判事・河野敏鎌(こうのとがま)は、江藤に対し、十分審理を尽くさず、4月13日、「除族(華族・士族の除籍)の上、梟首(きょうしゅ)(さらし首)」という惨刑を言い渡しました。

     大久保は、江藤逮捕の報に「じつに雀躍(じゃくやく)に堪えず」、その死刑判決・処刑の日には「江藤、醜体(態)、笑止なり」と、それぞれ日記に書いています。政治家・大久保の非情な一面をうかがわせます。

    • 江藤新平銅像(佐賀市観光協会提供)
      江藤新平銅像(佐賀市観光協会提供)

     島義勇も、同罪に処せられました。この佐賀の乱の反乱士族は1万人を超え、戦死173人、有罪410人と伝えられています。

     佐賀出身の大隈重信は後年、『大隈伯昔日譚(せきじつたん)』で、征韓論派参議の心境や思惑について、「一種の私情」と「陰(隠)密の意志」に駆られたものと回想しています。

     その中で大隈は、西郷について、必ずしも征韓論の主唱者ではなく、「旧君(久光)の難責や群小不満の徒の政府攻撃で、失望落胆の極みに沈み、北海道への隠遁(いんとん)すら考えるなか、むしろ対韓問題を自らの悲境を切り開く一血路とみなして、使節たらんことを要望した」とみています。

     とくに同郷人で、刑死した江藤については、「不満不平の徒に擁せられて、むしろその本性というべき実務家・立法家より、一変して武人、将帥(しょうすい)となり、軍を率い、一敗地にまみれ、自ら定めたる新律綱領(しんりつこうりょう)(刑法典)によって刑せられ、悲運の末路を見るに至りしは、惜しみてもなお惜しむべしの至りなり」と述べています。

     政府はその後も、西郷らによる西南戦争まで、各地で士族の武力反乱に苦しめられることになります。

    民撰議院設立建白書

    • 民撰議院設立建白書と署名者の拡大図(国立公文書館デジタルアーカイブから)
      民撰議院設立建白書と署名者の拡大図(国立公文書館デジタルアーカイブから)

     岩倉が襲撃される2日前の74年1月12日、板垣を中心に「愛国公党(あいこくこうとう)」が結成されました。

     同党は、結成の目的として、「人民の通義権理(つうぎけんり)を保全主張し、もって人民をして自由自主独立不羈(ふき)の人民たるを得せしむるにあるのみ」と明記しています。

     同月17日には、建白を受理する機関である左院に、「民撰議院設立建白書」が提出されます。建白書には、副島、後藤象二郎、板垣、江藤の下野参議4人と、「五箇条の御誓文」の原案の起案者である由利公正(ゆりきみまさ)(前東京府知事)、イギリスで立憲制度を視察した小室信夫(こむろしのぶ)(徳島県士族)、坂本龍馬に従い国事に奔走した岡本健三郎(前大蔵大丞)、古沢迂郎(うろう)(滋)(高知県士族)が署名しました。イギリス留学帰りの古沢が起草しました。

    「有司専制」批判

     建白書は、多くのメッセージを発しています。

     その冒頭で、「方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、(かみ)帝室に在らず、(しも)人民に在らず、(しか)(ひと)有司(ゆうし)に帰す」と述べ、現政権が天皇のもとにも人民のもとにもなく、ただ「有司(官吏)」にあるのみだとして、大久保政治の「有司専制」ぶりを批判しています。

     そのうえで、「朝出(令)暮改、政刑情実(じょうじつ)に成り、言路壅蔽(ようへい)(言論がふさがれていること)」の現状では、「国家土崩(どほう)」の危機を招来する。これを救う道は、「天下の公議」を反映させるしかなく、そのためには民撰議院(国会)を設立しなくてはならないと強調していました。

     また、建白書は、「(それ)人民、政府に対して租税を払うの義務ある者は、(すなわ)(その)政府の事を与知(あずかりしり)可否(かひ)するの権理を有す」という注目すべき見解を示していました。

     政府が租税を課すには国民の同意が必要であり、ここに民撰議院設立の根拠を求めていたわけです。

    公議輿論の尊重

    • 民撰議院設立建白書を報じる日新真事誌(国立国会図書館ウェブサイトら)
      民撰議院設立建白書を報じる日新真事誌(国立国会図書館ウェブサイトら)
    • 加藤弘之(兵庫県豊岡市ウェブサイトから)
      加藤弘之(兵庫県豊岡市ウェブサイトから)

     民権派は、少数者による専決は避け、幅広く議論を重ねる「公議輿論(こうぎよろん)」の尊重を掲げていました。

     公議輿論は、そもそも幕末・維新期の重要な政治理念でした。はじめは有力諸侯による「参預会議」などの合議体制として具体化します。

     明治維新の「五箇条の御誓文」(1868年)では、「万機公論に決すべし」として諸藩代表(貢士(こうし))の参加をもとめました。廃藩置県の後は、次第に個々人からなる「世論」を重視する考え方も生まれてきます。

     当時の有識者らは、福沢諭吉の『西洋事情』や、中村正直(敬宇)がミルの『自由論』を翻訳した『自由之理』などを通じて、すでにヨーロッパの議会政治に関して、一定の知識をもっていました。

     しかし、板垣らの建白は、すぐには受け入れられませんでした。ただ、建白書は、『日新真事誌(にっしんしんじし)』(イギリス人ブラックが72年、東京で創刊した日本語の新聞)に掲載され、論争を巻き起こします。

     とくに議院尚早論の立場から反対したのが、宮内省四等出仕(しゅっし)加藤弘之(かとうひろゆき)(1836~1916年、のち東大総長)でした。

     加藤は、国民に政治的知識も自覚も乏しい中で、民撰議院を開けば「愚論(ぐろん)の府」となり、国家に大きな害を及ぼしかねないと主張。「人民蔑視だ」と反発する愛国公党などとの間で論戦を展開しました。

     その後、板垣は高知に帰郷し、士族の政治結社「立志社」を組織し、75年には同社の社員が中心になって全国的な規模の自由民権結社「愛国社」を大阪で設立します。

     板垣らの民撰議院設立建白書は、士族らを中心にして明治10年代に本格化する自由民権運動の出発点になるのです。

    家禄に新税

     73(明治6)年11月、大久保政権は、士族や華族に支給していた給与のコメ=禄米(ろくまい)家禄(かろく)に、新税の「禄税(ろくぜい)」をかけることを決めます。

     禄高(ろくだか)6万5000石~5石までを335段階に分け、累進税率(最高35.5%~最低2%)をかけたものです。

     これに対して、参議の木戸孝允が、「2~300万人の衣食を奪い、士族だけが有する愛国の恒心を消滅させる」として新税創設に反対しますが、聞き入れられませんでした。

     加えて12月には、「家禄奉還制」も導入します。

     これは、家禄を政府に返還した士族に対して、事業資金などとして現金と公債を支給するものです。世襲の家禄である永世禄の場合は6か年分、一代限りの終身禄では4か年分が、半額は現金で、残りは8分利子付きの「秩禄(ちつろく)公債」でそれぞれ支払われました。

     これらにより、国家歳出中の家禄支出の約35%が減少したといわれます。その費用は、イギリスで募った1000余万円の外債(がいさい)が充てられました。

    「士族の商法」

     家禄を廃止する「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」は、政府にとって重要な政治課題でした。

     華士族は、当時の人口の5%に過ぎませんでした。彼らは失職したにもかかわらず、国家財政の3~4割を占める多額の禄を得ていました。厳しい批判が出るのは当然で、政府には、殖産興業推進の有力な財源として秩禄カットが欠かせませんでした。

     政府が69年の版籍奉還の際、諸藩に命じた「禄制(ろくせい)改革」で、旧家臣団の家禄は約4割削減されたといわれます。そして士族たちを農民、商人に復帰させる帰農商(きのうしょう)政策を進めました。

    • 秩禄公債証書見本(三百円)(国立公文書館デジタルアーカイブから)
      秩禄公債証書見本(三百円)(国立公文書館デジタルアーカイブから)

     71年の廃藩置県によって、藩がつぶれると、武士の家禄もその根拠を失いました。73年1月、士族・平民の別なく兵役に服させる徴兵令が公布されると、武士は完全に職を失います。徴兵告諭は、士族を「世襲座食(ざしょく)(働かないで食う)」と決めつけていました。

     生活難に陥った士族の約3分の1が家禄を奉還し、資金を元手に転身を図りました。しかし、農業は重労働ですし、商売はまったく未知の世界でした。天ぷら屋や茶漬け屋などをやっても、利益は上がりませんでした。慣れない商いに手を出して失敗することを「士族(武士)の商法」と呼ぶのは、ここに始まります。

     また、家禄奉還によって得た、多額の現金に目がくらんで蕩尽(とうじん)し、一家離散といった悲劇も起きたそうです。

     もちろん、士族から官吏や軍人、警察官、教師、新聞記者などに転職する人もいました。資金難を乗り越えて開墾や養蚕事業に成功した例も残っています。

     結局、家禄奉還制は、所期の成果を上げられずに打ち切られ、政府は76年、家禄・賞典禄を全面的に廃止し、代わりに金禄公債証書を交付することを決めます。

     こうして旧武士層は解体されることになるのです。

    武士の出処進退

     士族が没落に向かい、波乱の政局がつづく中、それとは距離を置き、一切の公職を断つという、潔い出処進退をみせたサムライもいました。

     その一人が、上野(こうずけ)国(群馬県)高崎藩で勘定奉行(かんじょうぶぎょう)をつとめていた深井景忠です。五男の英五(えいご)(1871~1945年、元日銀総裁)が自伝の中で、父のことをこのように回顧しています。

     <明治四年の廃藩置県により、旧来の武士階級は一斉に禄と職とを失った。父は其時(そのとき)五十三歳であったが、爾後(じご)、全く世間から退隠して細き生計を立て、前代の遺民(いみん)として固く自ら持した。

     愚痴も言わず、時事も論ぜず、只至尊(しそん)(天皇)の下、四民平等の世の中になったのだからと()って、従来の所謂(いわゆる)百姓町人に対して(ただち)に態度を改め、対等の礼を(もっ)て接すると同時に、新時代の顕官貴人(けんかんきじん)に対して、(ゆえ)なく礼を厚くすることを(いさぎよし)としなかった。又藩政の下に(おい)ては、渉外関係に注意して居たにも(かかわ)らず、退隠後は西洋嫌いで押し通し、出来るだけ洋風の新式品の使用を避けた>(佐伯彰一『近代日本の自伝』)

     景忠は、「尚武(しょうぶ)」(武道・武勇を尊ぶこと)の人で要職を歴任しましたが、いわゆる「守旧」派ではなく、生糸輸出で貿易上の事務に携わるなど現実的な開明派であったと伝えられています。

    【主な参考・引用文献】

     ▽落合弘樹『秩禄処分』(中公新書・講談社学術文庫)▽毛利敏彦『江藤新平』(中公新書)▽同『明治六年政変』(同)▽勝田政治『明治国家と万国対峙』(角川選書)▽同『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽井上清『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)▽司馬遼太郎『歳月(上)(下)』(講談社文庫)▽江村栄一校注『日本近代思想大系9 憲法構想』(岩波書店)▽中村正則ほか校注『日本近代思想大系8 経済構想』(同)▽篠田鉱造『明治百話(上)』(岩波文庫)▽北岡伸一『日本政治史―外交と権力』(有斐閣)▽佐伯彰一『近代日本の自伝』(中公文庫)▽圓城寺清『大隈伯昔日譚』(立憲改進党党報局)

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    2018年03月14日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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