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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第7回~「砲艦外交」で朝鮮開国

    朝鮮でも政変

     李朝(りちょう)(1392~1910年)後期の朝鮮外交は、宗主国(そうしゅこく)である清国との関係を基軸とし、徳川幕府の日本とは対等な隣国同士の交際をしていました。

     明治維新後の日朝関係は、日本の王政復古を知らせる外交文書の文言を巡ってこじれ、日本政府は1872(明治5)年9月、朝鮮・釜山(プサン)に置いた対馬藩(つしまはん)の「草梁倭館(そうりょうわかん)」を接収し、大日本公館としました。翌73年10月には、朝鮮に開国を迫る特使の派遣をめぐって、日本政府の内部で大政変(征韓論政変)が起こりました。

     この日本の政変と時をほぼ同じくして、朝鮮でも政変がありました。

     同年12月、即位して10年を迎える国王・高宗(こうそう)が親政を宣言し、最高権力者だった実父の大院君(たいいんくん)が摂政の座から降ろされました。

     高宗の妻である閔妃(びんひ)(ミンビ)は、大院君夫人の実家にあたる閔氏から迎えられた女性でした。ところが、国王の権限を利用して、閔氏一族一門を政権の中枢・要職に就かせて急速に力をつけました。

     こうして大院君を隠棲(いんせい)させ、政権を掌握した閔氏一族は、ここに新たな「勢道(せいどう)政治」(国王が認めた特定の個人や集団が権勢をふるう政治)を開始します。

     新政権は、大院君の施策のほとんどを廃棄し、外交でも鎖国攘夷論の大院君の下で対日強硬策を貫いてきた当局者らを罷免します。対日政策も変更される可能性が出てきました。

    江華島事件

     日本政府は74(明治7)年4月、改めて朝鮮との国交回復をめざし、外務省官員の森山茂を釜山に派遣します。だが、交渉は再び難航します。

     翌75年、森山は、副官である広津(ひろつ)弘信(ひろのぶ)を通じて、寺島宗則・外務卿に対し、測量を名目に、軍艦1、2隻を朝鮮に派遣するよう提案しました。

     朝鮮の鎖国攘夷派が追われたこの時期に、軍事的示威を加えて、交渉の進展を図ろうとしたのです。

    • 雲揚(国立国会図書館ウェブサイトから)
      雲揚(国立国会図書館ウェブサイトから)

     日本政府は75年5月末から6月初めにかけ、艦長・井上良馨(よしか)(後の海軍大将・元帥)少佐が率いる小砲艦「雲揚(うんよう)号」(排水量245トン)など2隻を釜山に派遣し、砲撃演習をして朝鮮側を脅かしました。

     同年9月20日、おなじ雲揚号が、今度は航路測定を名目に朝鮮の西海岸を北上し、首都ソウルへの表玄関である「江華島(こうかとう)」(カンファド)に接近します。艦長の井上少佐がボートをおろして草芝鎮(チョジジン)に近づこうとしたところ、砲台から攻撃を受けました。

     翌21日、雲揚号は、草芝鎮に報復攻撃して砲台を焼き払い、22日には南下して小島である永宗島(ヨンジョンド)の要塞を急襲して将兵が上陸。朝鮮の軍人・民間人ら35人を殺害し、銃砲などの兵器を奪って引き揚げました。 

     井上からの事件報告を受けて政府は29日、居留民保護の名のもと、軍艦の派遣を決め、大型快速艦「春日」(排水量1269トン)が釜山港に入りました。

     日本側は、雲揚号は「飲料水を求めていた」と説明しましたが、「許可を求めることもなしに、国交のない異国船が内国河川に侵入し、しかも要塞に接近することは歴然たる挑発行為」(海野福寿『韓国併合』)でした。

    日朝修好条規締結

     日本政府は、この江華島事件を口実として、日朝修好条規(しゅうこうじょうき)の締結を朝鮮に迫ることになります。

     政府はまず11月、朝鮮の宗主国・清国に森有礼(もりありのり)を公使として派遣し、朝鮮が対日交渉のテーブルにつくよう協力を求めます。これに対して清朝側は、「朝鮮の国事には干渉しない」と答えました。

    • 黒田清隆(国立国会図書館ウェブサイトから)
      黒田清隆(国立国会図書館ウェブサイトから)

     これを受けて日本政府は、朝鮮と交渉を進めることとし、特命全権大使に黒田清隆(きよたか)、副全権に井上(かおる)を任命しました。

     黒田は76年1月、軍艦6隻に総員800余人を乗せて出発。同時に政府は、陸軍卿・山県有朋を下関に急派し、有事に備えて朝鮮遠征軍を編成し待機させました。

     黒田らは2月10日、江華島に上陸して11日から交渉を開始します。停泊艦はいっせいに「紀元節(きげんせつ)」(73年、神武天皇即位の日をもって定められた祝日)の礼砲を放って示威行動を行います。

     朝鮮国内は、開国派と攘夷派に分かれていました。下野した後も影響力を残していた大院君は、開国派と政府の軟弱外交を強く批判します。しかし、朝鮮政府は、日本の強圧的な外交に反発しながらも、「開国はやむをえない」と判断し、日本案を修正のうえ、2月26日には日朝修好条規が調印されます。

     ただ、交渉にあたった朝鮮側の正使も副使も、「万国公法」に対して何ら知識を有せず、条約の何たるかも知らなかった(趙景達『近代朝鮮と日本』)ということです。

     修好条規は、十二(かん)(条)からなり、第一款は「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と明記されました。日本側は、これによって朝鮮に対する清国の宗主権を退け、その影響力を排除しようと考えていました。

     このほか、倭館が置かれていた釜山以外の2港の開港、日本の朝鮮沿岸の自由測量、日本の領事裁判権の規定も盛り込まれました。さらに、日本貨幣の流通を認め、輸出入品の関税が免除されるなど、朝鮮側にとって極めて不平等な内容でした。

    • 幕末に日本の木版画で描かれたペリー(米国議会図書館蔵)
      幕末に日本の木版画で描かれたペリー(米国議会図書館蔵)

     駐日アメリカ公使のビンガムは、副全権の井上に『ペリーの日本遠征小史』を送っていました。日本の対朝鮮開国外交は、ペリー提督が日本に対してみせた「ガンボート・ディプロマシー」(砲艦外交)によって、欧米流の不平等条約を朝鮮側に押しつけるものでした。

     ただ、朝鮮側には、日本と条約を結んでも、開国したという意識はなく、徳川幕府との「旧信」の回復と考えていました(金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』)。

     このため、日本との復交後も、米欧列強からの開国要求を拒み続けます。しかし、清朝の李鴻章が、朝鮮に代わってアメリカとの間で条約交渉を進め、82年5月には朝米修好通商条約が調印されました。

    日露で樺太・千島交換条約

     日本政府は、明治維新後、新しい官庁として開拓使を設置し、「蝦夷地(えぞち)」を改称した北海道と樺太を管轄させ、開拓を進めました。それに伴い、そこに居住していたアイヌの人々も日本に編入しました。

     日本とロシアの国境は、日露和親条約(1855年)によって、千島列島の択捉(えとろふ)島と得撫(ウルップ)島の間と決められました。しかし、樺太については、全島領有を要求するロシア側と、北緯50度での分割を主張する日本側とが対立して決着がつきませんでした。

     その結果、日露混住の地とされた樺太では、両国人の紛争が絶えず、開拓次官の黒田清隆は、樺太経営の「不利益」を唱え、政府内では、樺太放棄論も出始めます。

     「国権外交」を進めた副島種臣(そえじまたねおみ)・外務卿が樺太の買収・売却案を示して交渉にあたりましたが、ロシア側の拒絶にあって実らなかったことは<米欧回覧と文明開化 第8回>の中で触れました。

    • 榎本武揚(国立国会図書館ウェブサイトから)
      榎本武揚(国立国会図書館ウェブサイトから)

     明治六年政変のあと、大久保政権は樺太放棄論に傾きます。74年1月、黒田の推薦により、榎本(えのもと)武揚(たけあき)(1836~1908年)が駐露公使に起用され、難交渉にあたります。榎本は、旧幕府の海軍副総裁で、戊辰戦争の箱館五稜郭の攻防戦では、新政府軍参謀だった黒田の敵将でした。

     江華島事件が起きた75(明治8)年の5月7日、日露両政府は、ロシアのペテルブルクで、樺太・千島交換条約に調印しました。

     その結果、ロシアが樺太全島の権利を得て、日露の境界は宗谷海峡と定められました。代わりに日本は、得撫島以北の千島列島(クリル諸島)の18島の権利を得、カムチャツカ半島のラパッカ岬と占守島(しゅむしゅとう)間が国境となりました。

     しかし、ここでようやく定まった日露の国境問題は、その後、紆余(うよ)曲折を経ます。

     日本が勝利した日露戦争後に締結されたポーツマス条約(1905年)で、ロシアは、樺太・千島交換条約で獲得した樺太全島のうち南樺太(北緯50度以南)を日本に割譲しました。

     その後、太平洋戦争終結直前の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破って対日参戦。ソ連軍は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後も、戦闘を継続して南樺太や千島列島を制圧し、8月末から9月はじめにかけ、根室市の沖合に連なる国後(くなしり)択捉(えとろふ)歯舞(はぼまい)色丹(しこたん)の「北方4島」も占拠しました。

     日本政府は、51年のサンフランシスコ講和条約で千島列島と南樺太を放棄します。日本政府は、この放棄した千島列島の中に「北方4島」は含まれないとして、全4島の返還を要求しています。しかし、ロシア(ソ連の後継)は、「第2次大戦の結果、ロシア領になった」と、今も実効支配しているのが現状です。

    小笠原諸島を領有

     日本政府は1875年、小笠原(おがさわら)諸島の日本帰属を宣言しました。

     東京から南方約1000キロの太平洋上に散在する同諸島は、父島や母島、南鳥島(みなみとりしま)沖ノ鳥島(おきのとりしま)などからなります。

     徳川幕府が1675年、同諸島へ調査船を派遣したという記録があり、その後、1827年にイギリス艦の船長が島を探検し、イギリス領を示す銅板などを残したといわれます。しかし、いずれにしても定住者はなく、長い間無人島でした。

     最初の入植者は欧米人やハワイ人の男女25人からなる移民団で、1830年に父島に入って生活を始めました。

    • ペリー寄港当時の小笠原を描いた『日本遠征記』の挿絵(大英図書館蔵)
      ペリー寄港当時の小笠原を描いた『日本遠征記』の挿絵(大英図書館蔵)

     53年6月、アメリカのペリー提督が浦賀に向かう前に、小笠原に寄港しました。ペリーは、父島を太平洋航路の停泊地や捕鯨船の避難港にしようと考え、4日間滞在して島を踏査しました。ペリーは、蒸気船の波止場や、石炭倉庫の建設地を選定し、そのための土地の所有権も得ました。

     ペリーには、この島に植民地を建設する計画があったようで、移民のアメリカ人を「行政長官」に任命しました。ただ、ペリーは、同諸島の主権に関しては「疑いなく、一番古い占有者である日本に属する」と認めています。

     これに対して、江戸幕府は62年、外国奉行の水野忠徳(ただのり)らを咸臨丸(かんりんまる)で島に派遣し、まず開拓のために、八丈島の農民や職人ら38人が入植しました。

     76年、寺島外務卿が各国に同諸島の日本領有を正式通告します。イギリスもアメリカも異議は唱えず、同諸島は80年には伊豆七島とともに東京府の管轄になりました。

     小笠原諸島を構成する一つの島、硫黄島(いおうとう)が、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2~3月、日本とアメリカの激戦地となり、日本軍は玉砕しました。

     日本の敗戦後、小笠原諸島は、沖縄と同じく、サンフランシスコ講和条約発効後もアメリカの占領下に置かれます。小笠原の返還に関しては、1967年の日米首脳会談で合意に達し、翌68年4月、返還協定が調印され、日本に復帰しました。

    【主な参考・引用文献】

    ▽朝鮮史研究会編『新版 朝鮮の歴史』(三省堂)▽趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波新書)▽姜在彦『増補新訂 朝鮮近代史』(平凡社ライブラリー)▽海野福寿『韓国併合』(岩波新書)▽金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』(同)▽読売新聞昭和時代プロジェクト『昭和時代 敗戦・占領・独立』(中央公論新社)▽M・C・ペリー『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)▽勝田政治『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館)▽北岡伸一・歩平編『「日中歴史共同研究』報告書 第2巻近現代史篇』(勉誠出版)▽北岡伸一『日本政治史』(有斐閣)▽萩原延壽『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄11 北京交渉』(朝日文庫)▽『国史大辞典』(吉川弘文館)▽真崎翔『核密約から沖縄問題へ―小笠原返還の政治史』(名古屋大学出版会)

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    2018年04月25日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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