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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第8回~「西南戦争」への助走

    鹿児島に「私学校」

    • 私学校跡。石垣に弾痕が残っている
      私学校跡。石垣に弾痕が残っている

     明治六年政変で下野した西郷隆盛は、1873(明治6)年11月、鹿児島に帰省した後、農作業に精を出す一方、愛犬を伴って狩猟や湯治(とうじ)に出かける日々を送ります。

     また、自分に付き従って帰省した大勢の地元将兵らの面倒をみようと、74年6月には「私学校(しがっこう)」を設立。その目標は、「道義においては一身を顧みず」、「王を尊び、民を(あわ)れむ」心で、ひたすら難にあたることのできる士官の育成でした。

     元近衛局長官・篠原国幹(くにもと)の下に銃隊学校を設置し、元宮内大丞(だいじょう)村田(むらた)新八(しんぱち)には砲隊学校を任せました。そこでは軍事訓練や漢学講義などを実施、県内各地に数多くの分校を置きました。

     戊辰戦争の賞典禄をもとに、戦没者子弟のための「賞典学校」も設立し、旧下士官への授産に役立てるため、「吉野開墾社」も作りました。

    • 大山綱良
      大山綱良

     私学校は次第に軍事・政治組織化します。
     鹿児島県令の大山綱良(つなよし)(1825~77年)は幕末期、西郷らの指揮下、倒幕工作に従事し、戊辰戦争では軍事参謀として転戦、軍功を上げました。地元出身でありながら県令に就くというのは異例の措置で、鹿児島県庁では役人も県外の人を採用しませんでした。そこへ私学校のメンバーが浸透し、各行政組織や警察のほとんどのポストを彼らが占めます。

     この結果、鹿児島は、西郷と私学校が牛耳る「独立国」の観を呈するようになります。

     この間、西郷には、明治天皇をはじめ各方面から「再出仕(さいしゅっし)」の打診がありました。西郷は応じません。政府入りした旧薩摩藩主の父・島津久光からの要請に対しても、「(ただ)国難に(たお)るるのみの覚悟」と断っています。

    大阪会議体制

     政変で勝ち組の内務卿・大久保利通は、殖産興業―工業化路線を推進するためにも、士族たちの反発を和らげ、政権の安定を図る必要がありました。

     大久保は74年2月に台湾出兵を進め、同4月に島津久光を左大臣に任命します。これらは外征に息巻く士族たちや、不平士族を煽動(せんどう)しかねない久光への宥和(ゆうわ)策でした。

     ところが、久光は、政府の開化政策をことごとく否定する建言書を太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に提出し、大久保の罷免まで要求します。久光を政府内に取り込む策は裏目に出ました。

     そこで大久保は、台湾出兵に反対して参議を辞めた木戸孝允の政府復帰を図ります。根回しに動いたのは、伊藤博文でした。

     木戸は、岩倉使節団から一足早く帰国した直後の73年7月、「憲法制定の建言書」を太政官に提出、五箇条の御誓文(ごせいもん)の中身を拡充して「政規(せいき)」を確立するよう求めていました。

     大久保も同年11月、「君民共治」(立憲君主制)を採用して、「君権」と「民権」の範囲を「国憲」(憲法)で定める「立憲政体に関する意見書」をまとめていました。

     これらの「立憲政体」論が、両者を接近させます。

     大久保は75(明治8)年1月、大阪で木戸と会談して参議への復帰を要請、木戸は憲法制定や地方議会の開設など制度改革を条件に受諾します。

     他方、井上馨はこれに先立ち、木戸と、民撰議院設立を唱える板垣退助との会談をセットし、両者は今後の連携を確認しました。

     2月11日には、大阪で木戸・大久保・板垣の3者が会談し、制度改革の推進で一致(大阪会議)。3月8日に木戸が、同12日に板垣がそれぞれ参議に任命されます。

    「漸次立憲政体樹立」

    • 立憲政体の詔。左側のページに「漸次に国家立憲の…」と記されている(国立公文書館蔵)
      立憲政体の詔。左側のページに「漸次に国家立憲の…」と記されている(国立公文書館蔵)

     これらを受け、75(明治8)年4月14日、「立憲政体の(みことのり)」が発せられました。

     この詔勅(しょうちょく)には、「漸次(ぜんじ)に国家立憲の政体を立て、(なんじ)衆庶(しゅうしょ)(庶民)と(とも)(その)(けい)(よら)んと欲す」とあります。

     これは明治天皇による立憲政体導入宣言でした。立法諮問機関としての元老院(上院)と、司法機関としての大審院(最高裁判所)を新設し、全国の地方官を集めて意見を募る地方官会議を召集するとしていました。ここに欧州の三権分立をモデルとする日本の憲法構想がスタートを切ります。

     しかし、もともと急進的な板垣は、元老院の性格に関して、天皇大権を制限するような改正案を提示し、木戸の漸進論と対立します。

     他方、島津久光が復古的な提言の採用をしつこく要求し、板垣提案の「内閣・省卿分離論」(参議と省の長官職の分離)にも同調して、三条の弾劾(罷免)上奏に及びます。

     10月27日、政府は久光と板垣を更迭し、木戸がリードした大阪会議体制は、あっけなく崩れ去りました。

    廃刀令と秩禄処分

     政府は76(明治9)年3月28日、軍人・警官らを除いて帯刀(たいとう)を禁止し、違反者は刀を取り上げる旨(廃刀令)を布告しました。

     前年12月、陸軍卿・山県有朋による「廃刀の上申」では、今も帯刀している者は「頑陋(がんろう)」(頑固でいやしく軽蔑すべきこと)であり、その存在は「陸軍の権威にもかかわる」と述べていました。

     他方、「廃刀令」が布告された翌日、大蔵卿・大隈重信は「家禄(かろく)・賞典禄の処分」に着手し、76年8月5日、「金禄公債証書」発行条例を公布し、禄制の廃止を宣言しました(秩禄処分)。

     例えば、永世録の場合、禄高(金禄)に応じて5か年分~14か年分に相当する額の5分~7分利付の公債証書を交付しました。

     禄高20石の下級家臣団が受給者全体(約31万3千人)の84%を占め、その受け取った公債額は全体額の62%、1人平均で415円、年間利子収入は29円余にとどまりました(日本近代思想大系『経済構想』解説)。

     このため、政府は困窮する士族たちの授産事業を急がなければなりませんでした。

     ところが全国士族の13%を占めていたという鹿児島県士族については、条例の「最大7分」を上回る「1割」の利息が支給される優遇措置がとられました。大山鹿児島県令の強腕の成果とされますが、木戸はこれを「不公平だ」と厳しく批判します(落合弘樹『秩禄処分』)。

     一方、全体の0・2%に過ぎなかった旧大名・家老・公卿層は、全体額の18%、1人平均6万円以上の公債を取得し、年間利子収入は3026円に達しました。高額の公債を得た華族たちは、これを元手に銀行を設立したりします。

     廃刀令や秩禄処分は、士族の特権を剥奪(はくだつ)し、世襲による支配身分であった武士層の完全解体を意味しました。それだけに不平士族らの憤懣(ふんまん)をいやがうえにも高め、大規模な反乱を頻発(ひんぱつ)させることになります。

    神風連・秋月の乱

    • 神風連による種田少将襲撃を描いた錦絵
      神風連による種田少将襲撃を描いた錦絵

     76年10月24日~25日、九州・熊本で、太田黒(おおたぐろ)伴雄(ともお)らが率いる「神風連(しんぷうれん)」(敬神党(けいしんとう))が、反乱を起こしました。

     彼らは、政府の欧化政策を批判し、帯刀の禁止は「神代(じんだい)固有の勇武を摩滅し、国勢を削弱(さくじゃく)」させると糾弾(きゅうだん)。約200人が熊本鎮台を急襲するなどして、鎮台司令官・種田(たねだ)政明(まさあき)少将、県令・安岡(やすおか)良亮(りょうすけ)らを殺害しました。鎮台は大混乱に陥りますが、死傷を免れた残余の鎮台兵が反撃し、間もなく鎮定されました。

     次いで10月27日、神風連に呼応する形で、福岡県の旧秋月藩(あきづきはん)士族・宮崎(みやざき)車之助(くるまのすけ)らが240余人の同志とともに挙兵しました。

     彼らは、国権の拡張と征韓要求を掲げ、旧小倉(こくら)藩の豊津(とよつ)士族の決起を促しましたが協力を得られず、6日後、小倉鎮台兵に鎮圧されます。

    前原一誠「萩の乱」

    • 前原一誠
      前原一誠

     10月27日、山口県の(はぎ)でも、元政府高官の前原(まえばら)一誠(いっせい)(1834~76年)が、旧長州藩の同志150余人とともに挙兵を決めます。

     前原らは、山口への進撃が不利とみると、県北部の須佐(すさ)から漁船に分乗して海路島根をめざしますが、強風で断念。(はぎ)に引き返し、政府軍と衝突し、11月8日には壊滅します。

     前原は、不平士族たちが、鹿児島の西郷に次いで頼みとする人物でした。

     松下村塾(しょうかそんじゅく)で吉田松陰に師事し、高杉晋作らとともに志士としてならした前原は、戊辰戦争では長岡城攻略で奮闘しました。68年、大久保利通や副島種臣、広沢真臣(さねおみ)らとともに新政府の参議に任命されたあと、兵部大輔に就任します。

     しかし、新政府の政策と合わないことが重なって同郷の木戸とも不和となり、70年9月、官職を辞して帰郷しました。前原は、地租改正や秩禄処分、樺太・千島交換条約、征韓論の放棄などに強い不満を抱いていたといわれます。

     前原は、島根県下で捕らえられ、斬首刑に処せられました。

    「天下驚くべきの事」

     74年の佐賀の乱、76年の熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、山口萩の乱と、隣接した地方で勃発した士族反乱は、政府軍によって次々と制圧されました。

     これら反乱士族の間には、西郷が立つことへの期待がありましたが、西郷の側に呼応する気はなく、西郷は自重を貫きました。

    • 桂久武(鹿児島県立図書館蔵)
      桂久武(鹿児島県立図書館蔵)

     しかし、政府、反政府勢力のいずれもが、この先の西郷の出方を注視していました。

     西郷と深い親交のあった人物に(かつら)久武(ひさたけ)(1830~77年)がいます。桂は、西郷が私淑していた薩摩藩重臣・赤山(あかやま)靱負(ゆきえ)(お由羅(ゆら)騒動で切腹)の実弟でした。

     その桂に76年11月初旬、西郷は以下のような手紙を出しています。

     手紙は萩の乱に関連して、「両三日珍しく愉快の報」があったと、前原の蜂起拡大を待望しつつ、こう(つづ)っています。

     「()の方の挙動は人に見せ申さず、今日に至り(そうろう)ては、尚更(なおさら)の事に御座候(ござそうろう)。一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わんと、相含み(まか)り在り申し候」

     つまり、ひとたび動けば、天下おどろくべきことをなすつもり――と、決起を示唆していたのです。

     この頃、士族反乱だけでなく、農民の間でも、地租改正への不満から一揆が続発していました。政府が77年1月に地租の減額措置をとらざるをえなくなるのはそのためです。大久保政権は対外的な危機を乗り切ったとはいえ、国内的には多くのリスクに直面していました。

     西郷は桂への手紙の3か月後、実際に立ち上がることになるのです。

    【主な参考・引用文献】

     ▽井上清『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄13 西南戦争』(朝日文庫)▽三谷博『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』(NHK出版)▽川道麟太郎『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(ちくま新書)▽小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書)▽猪飼隆明『西郷隆盛―西南戦争への道』(岩波新書)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)▽家近良樹『西郷隆盛―人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)▽勝田政治『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)▽北岡伸一『日本政治史―外交と権力』(有斐閣)▽中村政則ほか校注『日本近代思想大系8『経済構想』(岩波書店)▽落合弘樹『秩禄処分―明治維新と武士のリストラ』(中公新書)▽大石眞『日本憲法史』(有斐閣)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)▽我妻栄編集代表『日本政治裁判史録』(第一法規出版)

    (記事中で写真の出典表記のないものは、国立国会図書館ウェブサイトから)

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    2018年05月16日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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