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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第9回~西郷軍VS政府軍

    讒謗律・新聞紙条例

    • 1874年(明治7年)11月2日付の読売新聞創刊号
      1874年(明治7年)11月2日付の読売新聞創刊号

     明治の新聞は、1870年に日本初の日刊紙『横浜毎日新聞』が発刊されると、72年に『東京日日新聞』『日新真事誌(にっしんしんじし)』『郵便報知新聞』、74年に『読売新聞』『朝野(ちょうや)新聞』などが次々と創刊されました。

     当時、政治、経済を扱う硬派の新聞では、『東京日日』が政府寄りで、他紙はおおむね反政府・民権の論陣をはっていました。とくに『日新真事誌』に民撰議院設立建白書が公表されて以来、政治評論が活発化します。

     政府は、新聞・雑誌による「圧政批判」を封じるため、75(明治8)年6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)および新聞紙条例を定め、言論規制に乗り出しました。

     同条例は、新聞紙の発行を許可制とする一方、「政府を変壊し国家を転覆する」記事・論説の掲載などを禁止し、厳しい罰則を設けました。9月には、出版条例も改正し、出版前に事前に検閲を受けるよう義務づけました。

     讒謗律の「讒謗」とは、「讒毀(ざんき)」と「誹謗(ひぼう)」の2語をつづめた言葉です。讒謗律の第1条をみると、事実を示すことなく、「人の栄誉を害する」行為を讒毀、「人の悪名を公布する」ことを誹謗と定義。天皇や皇族のほか、とくに官吏に対する批判を許さないとし、違反者は禁獄(きんごく)や罰金刑に処するとしていました。

     当時の新聞界では、元幕臣で岩倉米欧回覧使節団に同行した福地桜痴(おうち)(源一郎、1841~1906年)が74年、『東京日日』入りしたのをはじめ、『報知』には栗本鋤雲(じょうん)(1822~97年)、『朝野』には成島柳北(なるしまりゅうほく)(1837~84年)、末広(すえひろ)鉄腸(てっちょう)(1849~96年)らがそれぞれ入って、活発な議論を戦わせます。

     77年に西南戦争が始まると、各紙とも「特派員」を現地に派遣して戦争報道にあたります。『東京日日』からは社長の福地が自ら従軍し、3月23日から「戦地採録」の見出しで連載を開始。『郵便報知』から派遣された犬養毅(いぬかいつよし)(1855~1932年、のちの首相)の従軍記事は高く評価され、これが今日の事実報道のさきがけとされます。

    過激な『評論新聞』

    • 小松原英太郎
      小松原英太郎

     この間、政府による言論規制は強化され、新聞・雑誌の発行停止・禁止、記者の逮捕・収監が相次ぎました。

     『朝野』に入る前に『東京(あけぼの)新聞』の編集長だった末広鉄腸は、この条例を批判したかどで、禁獄2か月、罰金20円の罪に処せられました。同条例による摘発第1号とされます。鉄腸は『朝野』でも筆禍(ひっか)にあっています。

     75年3月に創刊された政論誌『評論新聞』は、急進的な開化政策や有司専制を排撃し、岩倉具視や大久保利通らの暗殺を主張する記事を掲載していました。

     76年1月には、編集長の小松原(こまつばら)英太郎(えいたろう)(1852~1919年)が、大久保政権を批判する「圧制政府転覆すべきの論」を発表して2年間投獄されます。同年7月、『評論新聞』は発行禁止処分を受けます。

     過激な民権派の論客だった小松原は、その後、新聞界から官界に転じて司法次官や内務次官を歴任し、1908年、第2次桂太郎内閣では文相に就任。山県有朋系の貴族院議員として政治への関与を深めるなど、起伏の多い人生を送ります。

     さて、『評論新聞』を主宰する海老原穆(えびはらあつし)は、鹿児島県士族で、元陸軍少将の桐野利秋(きりのとしあき)(1838~77年)や篠原国幹(しのはらくにもと)(1836~77年)と同郷でした。

    • 桐野利秋
      桐野利秋

     幕末期、「人斬り半次郎」という異名で知られた桐野は、明治六年の政変後、西郷隆盛とともに鹿児島に私学校を創設した、西郷派士族の中心人物です。

     私学校の士族たちは、征韓論を展開するなど薩摩の主張を代弁する『評論新聞』を愛読し、反政府熱をあおられます。西郷も同誌を読んでいたそうです。海老原は77年1月、桐野に対して「積年の憤懣(ふんまん)を流血の中に晴らし」たいと決起を求めました(小川原正道『西南戦争』)。


    村田新八の選択

    • 村田新八
      村田新八

     元宮内大丞(だいじょう)村田新八(むらたしんぱち)(1836~1877年)は、米欧回覧使節団のメンバーとして米欧を視察した優秀な士族でした。

     しかし、征韓論政変後に帰国した村田は、大久保と西郷のどちらにつくべきか、去就に迷います。

     勝田孫弥著『大久保利通伝』によりますと、村田は大久保と面会し、政変の顛末(てんまつ)を聞くと、大久保の話は「いちいち(もっとも)」なことばかり、道理において(ごう)間然(かんぜん)する所なし」――つまり、いささかも非難するところがなかったというのです。そのあと、鹿児島へ帰郷して西郷の意見を聞いてみると、こちらは「心事において間然する所なし」。村田は幼少時から西郷に兄事(けいじ)し、西郷遠島の時は、自らも連座し、苦汁をなめました。

     西郷か、大久保か――村田は結局、「容易ならざる恩誼(おんぎ)」と「離るべからざる情義(じょうぎ)」のため、西郷方に投じ、西郷の最期まで付き添うことになります。

     私学校の砲隊学校を監督していた村田は、76年12月、「今やウドサァー(巨人のこと。西郷を指す)の力にても、これ(私学校党の形勢)を如何(いかん)ともすること(あた)わず。現状は、あたかも四斗樽(よんとだる)に水を盛り、腐縄をもってこれを(まと)いたるがごとし」と、もはや樽が破裂するのは必至との情勢認識を示していました。

     薩摩は不穏な空気が充満していました。鹿児島に潜入した政府の密偵たちも「暴発出京」情報を頻々(ひんぴん)と、東京にもたらします。

    火薬庫襲撃と西郷暗殺計画

     76年暮れ、警視庁二等警部の中原(なかはら)尚雄(ひさお)をはじめ、鹿児島県出身の警部・巡査ら約20人が、大警視の川路利良(としよし)(鹿児島県出身)から、帰郷して私学校党の情報収集と説得にあたるよう指示されます。

     翌77年1月、鹿児島県の陸軍火薬庫の弾薬が私学校党の手に渡ることを恐れた政府は、これをひそかに大阪に移送しようとします。

     これに対して私学校党のメンバーは、同月29日夜から2月はじめにかけ、陸軍火薬庫だけでなく、海軍造船所付属の火薬庫を相次いで襲い、大量の小銃や弾薬を奪いました。

     襲撃には約1000人もが参加しており、事実上、反乱勃発の一報に西郷は、「しまった」とつぶやいたと伝えられます。

     2月上旬、政府が視察のため派遣した中原らが、現地で私学校党のメンバーに逮捕され、拷問(ごうもん)の末、西郷暗殺計画を「自供」します。

     中原らの口供(こうきょう)(供述)書によれば、川路は、挙兵を止められなければ、「西郷と刺し違えるよりほかはない」旨を語ったとされ、中原自身も、同様の話を鹿児島入り後、旧知に語っていました。さらに、大久保の命を受けて帰県したという別の人物が自首して、大久保の関与を裏付ける証言をしたといわれます。

     しかし、中原らは、のちに供述内容を否定します。拷問によるものだとすれば、その信憑性(しんぴょうせい)は乏しくなります。

     政府内では、中原らの「視察団」を「刺殺団」と取り違えたのではないか、ということが真面目に論じられていました。

     本当に暗殺計画があったのかどうか、真相は未だ不明です。

     政府側が、供述書は拷問によって捏造(ねつぞう)されたものと決めつければ、私学校側は暗殺計画の実在を信じていました。そして鹿児島県内では、「憎むべき奸賊(かんぞく)は、大久保と川路」といった世論が沸騰します。

     西郷自身は、火薬庫襲撃では私学校生を叱責しましたが、さすがに自分の暗殺計画について聞かされると態度を改めます。

    「政府へ尋問の筋有之」

    • 川村純義
      川村純義

     2月5日、西郷と私学校党幹部らとの協議で、「暗殺」問題について大久保と川路に「尋問」するため、「率兵上京(兵隊とともに東京に向かうこと)」が決まります。

     作戦会議では、船を使う海路案は否定され、全軍が陸路で熊本を経由して東上することで一致しました。

     政府は、旧薩摩藩士の海軍大輔(たいふ)川村純義(かわむらすみよし)(1836~1904年)を鹿児島に派遣します。川村は9日になって鹿児島湾に到着しますが、不穏な情勢のなか上陸できず、鹿児島県令の大山綱良(つなよし)と船上で会います。

     西郷―川村会談が一応セットされますが、時すでに遅く、桐野らの反対や妨害もあって会談は実現しませんでした。

     西郷、桐野、篠原は12日、大山県令に対して連名で率兵上京の届けを出しました。それには、「今般、陸軍大将・西郷隆盛ほか二名、政府へ尋問の筋有之(これあり)、旧兵隊等随行……」と、行軍の目的を明記し、中原らの口供書が添えられていました。届出書は大山によって各府県や各鎮台に通知されます。

     西郷軍(薩軍)は出兵準備を急ぎます。

     総勢は1万5000人で、各2000人からなる七つの大隊が編成されました。一番大隊長・篠原国幹、二番大隊長・村田新八、三番大隊長・永山弥一郎、四番大隊長・桐野利秋など、西郷側近たちが軍の指揮にあたることになります。

     14日、閲兵式のあと、まず、六番・七番連合大隊長の別府晋介(べっぷしんすけ)(1847~77年)らが先行し、翌15日から、50年来(ねんらい)なかったという大雪をついて、薩軍の本隊が行軍を開始。当面の目標は政府軍の拠点・熊本城(熊本鎮台)の陥落です。

     村田新八は、洋行帰りらしく、燕尾服(えんびふく)に山高帽姿で出陣しました(ドナルド・キーン『明治天皇』)。西郷も17日、陸軍大将の正服姿で猟犬を伴い、鹿児島を後にします。

    大久保は「不幸中の幸い」

    • 錦絵「鹿児島暴徒出陣図」(鹿児島県立図書館蔵)
      錦絵「鹿児島暴徒出陣図」(鹿児島県立図書館蔵)

     弾薬庫襲撃事件を受けて、陸軍卿の山県有朋(やまがたありとも)は2月4日、神戸に軍参謀部を置きました。9日、各鎮台司令長官に非常事態宣言を発します。

     さらに12日、薩軍に対する「作戦意見書」を太政大臣に提出しました。それには、戦力を一つに結集して、終局は「桜島湾に突入、鹿児島城の滅却を期す」としていました。

     山県は、熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)に対し、「攻守よろしきに従い、ただ万死を期して熊本城を保つべし」と指令しました。(川道麟太郎『西郷隆盛』)

     一方、このころ、大久保は何を考えていたのでしょうか。

     2月7日の伊藤博文への手紙によれば、大久保は、私学校の暴発は桐野が主導したもので、西郷はこんな「無名の軽挙」はしないと信じていました。こうした見方は、大久保だけでなく、岩倉具視や木戸孝允にも共通していました。

     しかし、大久保はその手紙で、これで戦争になれば、相手は「名もなく義もなく、天下に言い訳もたたないので、その罪をならして討てばよい」との冷徹な見方を示し、「この節、これが起きたことは、朝廷不幸(中)の幸いとひそかに心中には笑いが生じているくらいです」とも書いています。

     大久保は、戦争に勝利すれば、これまで中央の支配に何かと(あらが)ってきた鹿児島県を痛打し、その中核の私学校勢力を駆逐できる、それこそが「不幸中の幸い」とみていたようです。

     ただ一方で、大久保は、西郷に会えれば説得できると考えていたとも言われますが、その機会はついに訪れませんでした。

     2月19日、明治天皇は「鹿児島県暴徒」に対する征討令を布告します。有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を征討総督とし、征討参軍(幕僚長)に陸軍中将・山県有朋、海軍中将・川村純義をそれぞれ任命して陸・海軍の指揮官としました。

     いよいよ、西郷軍と政府軍との「悲劇の内戦」の火ぶたが切られます。

    【主な参考・引用文献】

     ▽小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書)▽井上清『明治維新』(中公文庫)▽川道麟太郎『西郷隆盛』(ちくま新書)▽勝田孫弥『大久保利通伝(下)』(同文館)▽家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)▽佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄13 西南戦争』(朝日文庫)▽三谷博『維新史再考』(NHK出版)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)▽岩井肇『新聞と新聞人』(現代ジャーナリズム出版会)

     (記事中、写真の出典がないものはすべて国立国会図書館ウェブサイトから)

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    2018年05月30日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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