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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <西郷隆盛と大久保利通>第10回~悲劇の内戦 西郷の「戦死」

    熊本城の攻防

    • 谷干城(国立国会図書館ウェブサイトから)
      谷干城(国立国会図書館ウェブサイトから)

     1877(明治10)年2月、西郷軍(薩軍)北上の報を受けた熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)(1837~1911年)は、熊本城に籠城(ろうじょう)する作戦をとります。この戦略拠点を鎮台兵で持ちこたえ、政府軍主力の来援を待とうというのです。

     谷は土佐(高知)の人です。土佐勤王党の首領・武市(たけち)瑞山(ずいざん)や、2歳上の坂本龍馬、1つ下の後藤象二郎ら開明派の影響を受けて、討幕運動に奔走しました。戊辰(ぼしん)戦争に従軍したあと、73年、陸軍少将として同司令長官に就任、翌74年には佐賀の乱の鎮定に出動し、台湾にも出兵しました。

     熊本城攻防戦開始直前の77年2月19日、城から突如、火が出ました。強風にあおられて天守閣は炎上し、城内の多くの建造物や糧食の大半が焼失しました。放火説もありましたが、後年、谷は「失火」だったと回顧しています。

     21日、城下に侵入してきた薩軍に対して鎮台兵が反撃します。谷の開戦報告を受けて、征討総督・有栖川宮(ありすがわのみや)は、「一撃して賊を破る()し。天下人心の向背(こうはい)は、(この)一挙に在り」と打電しました。

     22日から薩軍は、熊本城を強襲して城を包囲します。しかし、徴兵制にもとづく鎮台兵が必死に防御し、籠城は長期戦に入ります。

    九州諸隊が決起

     西郷決起の知らせに九州各地の士族たちが呼応します。

     熊本からは、熊本隊、協同隊、人吉(ひとよし)隊、大分からは中津(なかつ)隊などが参戦しました。

     熊本隊は、池辺吉十郎(いけべきちじゅうろう)(1838~77年)率いる熊本士族ら1500余人で、2月23日に薩軍に加わります。

     協同隊は同県の士族結社「民権党」のグループで、平川惟一(ひらかわただいち)、宮崎八郎(1851~77年、中国革命運動家・宮崎滔天(とうてん)の兄)らをリーダーに、政府打倒を期して総勢300人が参加しました。

     平川と宮崎は、台湾出兵の際も、熊本で義勇隊を組織して参戦。その後、中江兆民(ちょうみん)がルソーの「社会契約論」を抄訳(しょうやく)した『民約論』をテキストに自由民権の教育活動などをしていました。

     宮崎(日向(ひゅうが))では、延岡、高鍋(たかなべ)、福島、佐土原(さどわら)飫肥(おび)都城(みやこのじょう)の各隊が兵をあげます。ほとんどが士族だった熊本諸隊に対して、日向諸隊は約半数が農兵で占められていました(小川原正道『西南戦争』)。

     こうしてみると、西郷を追って旗揚げした諸隊には、民権家やインテリ士族、農民らが自主的に参加していたのです。

     西南戦争は、単に反動派士族の抵抗とみられがちですが、民主的権利の拡大要求を掲げる諸隊の参加からして、ある種の「革新」性を帯びていたとの評価があります。

     高知県には、全国各地から民権家が集結していました。板垣退助主宰の自由民権結社「立志社」内では、薩軍の決起を受けて挙兵計画が練られました。

     これに対し、陸軍卿代理として軍政の要職にあった西郷従道(つぐみち)(隆盛の弟)は、九州以外への戦火拡大を防ぐため、立志社をはじめ四国の動静に細心の注意を払っていました。ただ、薩軍不利の戦況が明らかになると、立志社の計画は尻つぼみになります。

    田原坂の戦い

    • 錦絵「鹿児島新報田原坂激戦之図」(鹿児島県立図書館蔵)
      錦絵「鹿児島新報田原坂激戦之図」(鹿児島県立図書館蔵)

     <雨は降る降る 人馬(陣羽(じんば))は()れる 越すに越されぬ 田原坂(たばるざか)

     こう歌われた「田原坂」(熊本市北区植木町)は、熊本へと南下を図る政府軍主力と、これを防ごうとする薩軍との死闘が演じられた地です。

     77年3月4日から激戦が始まりました。

     政府軍では、連射可能な最新式スナイドル銃(後装ライフル銃)が威力を発揮。また、薩軍の白刃攻撃に対抗するため、鹿児島出身の巡査を主力に「抜刀隊」を組織しました。

     ここに「薩摩の人をもって薩摩の賊を討つ」、つまり友達や親族同士が接近戦で殺し合う悲劇が相次ぎます。

     一方、政府の警視隊には旧会津藩士が多数参加していました。彼らには、戊辰戦争での薩摩藩など「官軍」による会津攻撃の無惨な記憶が(よみがえ)ります。

     当時22歳、「郵便報知新聞」の従軍記者・犬養毅(いぬかいつよし)は、その田原坂戦場ルポで、隊員が戦闘中、大声で「戊辰の復讐(ふくしゅう)」と叫んでいたと伝えています。

    • 犬養毅(国立国会図書館ウェブサイトから)
      犬養毅(国立国会図書館ウェブサイトから)

     3月19日、政府軍の別働隊が熊本県中部の日奈久(ひなぐ)八代(やつしろ)方面に上陸します。熊本城攻囲中の薩軍を背後から突こうとする作戦でした。20日には政府軍が田原坂を突破しました。

     参軍・黒田清隆は4月12日、政府軍の総力を挙げて熊本城進撃を開始します。会津藩出身の陸軍中佐・山川浩の1隊が14日、薩軍の堡塁(ほうるい)を突破、熊本城の包囲網が解かれました。

     籠城50余日、城を守り抜いた熊本鎮台司令長官の谷は、その後、軍人から政治家へと転進。立憲政治の確立を訴え、日清・日露戦争では非戦論を唱えるなど、明治政界に独自の地歩を築くことになります。

    戦時下の民衆

    • 西南戦争当時の熊本城(国立国会図書館ウェブサイトから)
      西南戦争当時の熊本城(国立国会図書館ウェブサイトから)

     明治元年に生まれ、のちに陸軍軍人として諜報活動に従事した石光真清(いしみつまきよ)(1868~1942年)は少年時代、故郷の熊本で西南戦争を経験しました。

     その手記『城下の人』によれば、77年4月、熊本城の包囲が解け、久方ぶりに平和がやってきました。見渡す限り一面焼け野原の中、「城下には、家を焼かれ、財を失い、着のみ着のままで、鍋釜の類を少しばかり手に提げて、一家一団となって焼跡へ戻って来る人が続いた。誰を見ても衣服は汚れ、帯は縄のようになり、下駄は草履のように履き減らしたのを大切そうに履いている」とあります。

     それから1世紀の後、字の読めない「無文字」の庶民が西南の役を発端とする近代日本の百年をどのようにみてきたか――をテーマに、石牟礼(いしむれ)道子さん(1927~2018年)が、西南戦争を知る100歳以上の古老から聞き書きをしています。石牟礼さんは熊本県生まれ、水俣病を描いた文学作品『苦海浄土』で知られる作家です。

    • 石牟礼道子さん(1970年撮影)
      石牟礼道子さん(1970年撮影)

     その著である『西南役伝説(せいなんえきでんせつ)』には、薩軍と政府軍との斬り合いをみたという一人の老女のこんな語りが出てきます。

     「刀のいくさはな、芝居のように、品の良うはいかん。侍さんでもな、死のうごつはなかろもん。田んぼの(わら)小積みば間にしてな、両方とも斬られんごつぐるぐる(まわ)ってなあ、おめき合うたり、突っこけたりして、勝負のつくまではそらもう大事(おおごつ)。…殺す方も殺される方も泥まみれになって、何のわけで殺し合いばしなはるだろうか。…踏んで踏み固めてなあ、畠も田も使いもんにならんようにしてしもて。いくさの通った跡は、百姓がどのくらい大事か。迷惑なこつ、ほんなこて」

     戦場となった九州各地は、政府軍も薩軍も、ともに市街や村々を焼き払い、農民は耕作ができなくなったり、人夫や食糧の供出を迫られたりして、多大な犠牲を払わされました。

    乃木希典の痛恨事

    • 少佐時代の乃木希典(明治6年撮影、国立国会図書館ウェブサイトから)
      少佐時代の乃木希典(明治6年撮影、国立国会図書館ウェブサイトから)

     熊本鎮台歩兵第14連隊長心得・陸軍少佐の乃木希典(のぎまれすけ)(1849~1912年 のち陸軍大将、学習院院長)は、1877年4月17日付で、「待罪(たいざい)書」を参軍・山県有朋中将あてに提出しました。

     乃木は2月22日夜、熊本城をめざして進軍中、薩軍と遭遇。抜刀隊の夜襲攻撃を受けて退却する間、旗手が戦死し連隊旗を奪われていたのです。

     山県は軍紀(ぐんき)を正すため、乃木を極刑に処すべきだと主張しました。これに対して、第1旅団司令長官・野津鎮雄(のづしずお)少将が、乃木の戦功をほめ、ここは罪を許して他日の奮励を待つべきだ、と論じました。乃木は処罰を免れました。(大濱徹也『乃木希典』)

     乃木は、天皇から授けられ「大元帥(だいげんすい)」(陸海軍の統帥者としての天皇)の象徴である軍旗を喪失したことをずっと忘れませんでした。

     明治天皇の大喪当日(1912年9月13日)、自刃して「殉死(じゅんし)」した乃木がしたためた遺書には、西南戦争時の軍旗喪失以降、「死処」を求めていたが、機会を得られなかった。今ここに覚悟を決めた――とありました。

    西郷の最期

     参軍の山県は1877年4月23日、西郷にあてて手紙を書いています。

     交戦以来、「両軍の死傷、日に数百。朋友(あい)殺し、骨肉相()む」状況は、過去に例がなく、「願わくは、君早く自ら謀り、一つはこの挙が君の素志(そし)にあらざるを証し、今一つは、彼我の死傷を明日に救うの計を成せよ」と、情理を尽くして訴えていました。

     幕末以来、山県と西郷は、薩長提携や戊辰戦争、軍制改革でも協力しあいました。山県は西郷に敬意をいだいており、それだけに懊悩(おうのう)していたといわれます。

     熊本城落城に失敗し、守勢に回った薩軍は、本営を鹿児島県に接する人吉に移します。薩軍は、武器も弾薬も食糧も欠乏し、敗色は濃厚となっていきました。

     4月27日には、参軍・川村純義率いる汽船が鹿児島港に入って兵士が上陸。5月7日には、鹿児島県令になった岩村通俊(みちとし)が西郷に投降を呼び掛けました。

     7月下旬には都城、宮崎が相次いで政府軍の手に帰します。追いつめられた西郷は、延岡北方の可愛嶽(えのたけ)の絶壁をよじのぼって脱出を図り、薩軍は9月1日、鹿児島に突入、焦士と化した城下を支配下に置きます。

     出発してから199日ぶりの帰還で、1万5000人とされた薩軍の兵士の数は、400人を切っていました。

    • 鹿児島市の南洲墓地にある西郷隆盛の墓(右)
      鹿児島市の南洲墓地にある西郷隆盛の墓(右)

     薩軍は城山(しろやま)に立てこもります。9月24日、政府軍の総攻撃が開始され、西郷は、流れ弾を肩より股にかけて受けます。「もう、ここらでよかろう」と言い、最後は別府晋介(ぺっぷしんすけ)介錯(かいしゃく)したといわれます。

     弾雨の中、別府や桐野利秋、村田新八、桂久武、辺見十郎太、池上四郎らも力尽きて戦死しました。

     西南戦争で政府軍の戦死者は6800余人、戦傷者は9200余人。薩軍の戦死者は約5000人、戦傷者は約1万人でした。ただ、兵士1000人あたりの戦死者数は政府軍126に対して薩軍は208で、薩軍が大きく上回っていました。戦争終結後、鹿児島県令・大山綱良(つなよし)ら22人の斬罪を含め2764人が処罰されました(『国史大辞典』)。

    西郷の敗因

     薩軍の敗因について、多くの史家がそろって挙げているのが、西郷が挙兵の理由を自らの暗殺計画への「尋問」に絞ったことです。このため、それは「私憤」と受け止められ、「大義名分」に欠けたというものです。

     仮に、大久保政権の有司専制批判や民衆救済策を掲げていたならば、より広範な支持と連帯を得ることができたというのです。

     戦費や艦船・装備、動員兵力のいずれの面でも政府軍に劣っていたこと、熊本城攻撃にこだわりすぎた戦略上の問題なども敗北の原因とされています。

     また、薩軍は、メディアの時代が到来する中で「情報戦」に敗れたとの指摘も重要です。

     当時、福沢諭吉は、西郷側の敗因として「電信郵便の便はなく、蒸気船の備えもなく、また印刷を利用して自家の主義を公布する方法を知らなかった」ことを挙げ、政府軍がこれと対照的に、「文明の利器」をフル活用して薩軍を圧倒したとみていました。 

    【主な参考・引用文献】

     ▽小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書)▽小林和幸『谷干城―憂国の明治人』(同)▽川道麟太郎『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(ちくま新書)▽岡義武『山県有朋―明治日本の象徴』(岩波新書)▽猪飼隆明『西郷隆盛―西南戦争への道』(岩波新書)▽石牟礼道子『西南役伝説』(講談社文芸文庫)▽家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)▽戸川幸夫『乃木希典』(人物往来社)▽大濱徹也『乃木希典』(講談社学術文庫)▽松下芳男『乃木希典』(吉川弘文館)▽先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書)▽石光真清『城下の人―新編・石光真清の手記(一)西南戦争・日清戦争』(石光真人編、中公文庫)

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    2018年06月13日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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