連載:「一瞬を追う」 鈴木裕美子 (1)人生変えた「女王対決」

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日本人トップでゴール、声援にこたえる鈴木さん。翌日以降、橋本聖子さんのライバルとして取材が殺到(1988年4月17日、びわ湖国際ロードレースで)
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ソウル五輪代表を橋本聖子さんと競った鈴木 裕美子さん(41) 相手のハンドルが揺れた。女子自転車界の草分け的存在だった鈴木裕美子(能代高卒)の自転車が、はじかれるようにバンク頂上に乗り上げた。一瞬のすきを突いて、橋本聖子(37)が、ゴールに向かって猛然とダッシュをかけた。橋本の後ろ姿が、鈴木の視界からどんどん遠のいていった。
一九八八年六月十二日、静岡・修善寺で開かれたソウル五輪自転車競技代表選考会女子スプリント。当時、二十七歳。全盛期だった鈴木は、スポーツ界の“サラブレッド”橋本との一騎打ちに敗れ、五輪出場の夢を絶たれた。
その後の表彰式。鈴木はほほ笑み続けていた。五輪への決意を示すかのような丸刈り頭。客席に手を振る姿は、勝者・橋本より、晴れやかにさえ見えた。奇妙で不思議な笑顔だった――。
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国内のスピードスケート界で無敵だった橋本はそのわずか二か月前、ソウル五輪を目指して自転車競技への参戦を宣言。冬夏連続五輪出場の挑戦を、マスコミが大々的に取り上げた。
一方、鈴木は当時、千メートルタイムトライアルの日本記録を五年間保持し、スプリント競技で五輪に最短とみられていた。
「女王対決」――。鈴木が所属していたファッションビル「パルコ」(本社・東京都)にも、取材の申し込みが殺到した。
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「あの時、人生が変わった」と鈴木は言う。国内の自転車競技はそれまで、全日本アマ選手権で優勝しても新聞に載らないほど、マイナーな存在だった。その悲哀を、いやというほど感じてきたのが鈴木だった。
だから、理髪店で丸刈り頭を刈り込む姿さえテレビカメラに撮らせた。刈った後に同様の依頼があると、再び理髪店のいすに座った。大会前、橋本の練習を見て、実は「勝てない」と悟っていた。それでも、「橋本さんに負けない」と、対決ムードをあおった。「自転車をメジャーな競技に」と思う鈴木のパフォーマンスだった。決戦には三百人もの報道陣が詰めかけた。思惑通りだった。
「橋本さんには負けた。でも、話題になったことで、自転車競技を多くの人に知ってもらえた。その点で、私は『勝った』と思った」――。鈴木は、あの時の笑顔の意味を振り返る。
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ただ、鈴木の思いとは裏腹に、ソウル五輪が終わると、自転車熱は急速に冷めた。翌八九年の全日本スプリントに出場した女子選手は、わずか二人。
一方、鈴木は取りつかれたように、その後も走り続けた。四十歳まで現役を続け、九八年には三十七歳で「東京女子クリテリウム」(旧・女子国際ロード)を制している。
駆り立てたものはなんだろうか。夫でコーチだった今野(現・鈴木)信(53)の「流儀」を実現させたかった――と、鈴木は今、思う。
薄い選手層ゆえにパワーだけで勝ってしまう現実。「橋本人気」だけに頼りきった女子自転車界の甘い発想への怒り……。「男子のように、駆け引きやチームワークのある正しい競技会を実現したい」と願い、ペダルをこぎ続けた。
そして、ピークを過ぎても鈴木は勝った。しかし、それは、自らの願いとは矛盾する皮肉な現実でもあった。もがいていた。
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鈴木が五輪初出場を果たしたのは、“ソウルの敗北”から四年後。バルセロナ五輪代表選考会のロードで優勝した時だ。
「ざまあみろ」――。記者会見で、鈴木は言い放った。ソウル五輪前のパフォーマンスとは全く異なる本音の吐露だった。四年前の笑顔は消え、涙がこぼれていた。(敬称略)
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峰浜村出身。能代高卒。現役時代は、帰省の度に地元高校生らに自転車競技の基本を指導、県内の競技力向上に貢献した。村内にあるサイクルロード「ゆみこロード」(1周10キロ)は、鈴木さんのバルセロナ五輪出場を記念して、村が1994年10月に整備した。
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