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≪上≫シカリの血脈

「苦しませず仕留める」 神の授かりに敬意

 四方を山々で囲まれた阿仁町・打当集落の一角に、百頭を超すクマが暮らしている。“マタギの里”を売り込むため、町の第三セクターが十五年前にオープンさせた観光の目玉「熊(くま)牧場」。手慣れた様子でクマを世話する飼育係の鈴木学(27)にとってクマは、幼いころから身近な存在だった。

 子グマと自宅で遊び、抱きかかえて散歩したこともある。祖父の松治(85)が牧場建設を計画する町から依頼され、自宅近くで飼育してあげていたからだ。


写真:写真説明
クマを仕留めたシカリの鈴木松治。統率力と勇気がマタギの心を束ねていた(1978年、阿仁町山中で)
 「頭撃ちの松」の異名をとる松治は、打当集落のマタギを束ねるシカリ(頭領)。顔から歩き方までが若かったころの祖父とうり二つとよく言われる。父親の米孝(54)も若いころからマタギの道に入った。しかし、学はマタギに全く興味がない。銃を持つことなど考えたこともない。

 学は言う。「僕はクマを育てる方でおじいさんの仕事を継いだ。今の時代、クマをとることは生活に必要なことではない」。クマはかつて、山里にたんぱく質をもたらし、毛皮は防寒着になり、乾燥させた胆は万能薬として重宝された。しかし、金さえ出せば何でも買えるこの時代、学が働く「熊牧場」には、子グマとの触れ合いを求める三万もの観光客が一年間に訪れ、マタギは生業(なりわい)として成り立たなくなりつつある。

    ◎

 米孝は十六歳のころ初めて狩りに出て、二十二歳で銃を手にした。しかし、シカリとなったばかりの松治は、息子にはあえて射手の「ブッパ」役を任せず、遠巻きにクマを追い込む「勢子(せこ)」を務めさせた。

 米孝は「なんぼでもクマに近づいてやろう」と駆け回った。クマにかける執念が、地形やクマの生態を頭にたたき込ませた。ブッパの手を逃れた二十頭以上を仕留める仕事を残した。勢子としては考えられない数という。米孝は自然と溶け込み、日常では味わえない快楽を狩りに見いだしていた。

 しかし、三十五人ほどいたマタギの高齢化は年々進み、二十年以上もシカリを務めた松治が七年前に銃を置くと、求心力を失った集落のマタギは少人数で行動するようになった。「他人の心を見て取り、自分の心も伝えられる。そんな父のようなマタギが出なくなった」。松治を継ぐシカリはいまだに現れていない。

 米孝はだから、マタギを継がなかった学の選択は時代の流れだと思っている。それでも「代々受け継いできたものが途絶えてしまうのは寂しいし、情けない」。自分を責める時もある。

    ◎

 四十年も昔の話である。松治は仲間と何十メートルもの切り立ったがけに向かった。十メートルほど下の岩穴に冬眠に入ったクマがいる。銃を右手に持ち、木に結わえたロープを腰に縛って左手でつかみながら、松治はゆっくりと絶壁を降りていった。

 ぶら下がったままの不安定な状態。急所を外せば手負いのクマに反撃される。並みのマタギなら尻込みするような狩りだった。

 松治は片手で狙いを定め、引き金を引いた。頭を完全に撃ち抜き、絶命させた。一見すれば荒々しくも映る殺生にはしかし、山の神からの授かり物への敬意があった。「クマの命を取るときは苦しませずに仕留める」(敬称略)

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