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夢あきらめない<3>

NPB目指し、闘志再び

夜遅くまでバットを振り、練習に取り組む金輪選手(高松市内で)

 「今度こそは絶対、誰にも負けない」。金輪圭祐は並々ならぬ決意を胸に、素振りを繰り返した。2007年11月18日、東京都府中市の明治大硬式野球部練習場で行われたBCリーグの合同トライアウト(選手選考会)の2次テスト。金輪が独立リーグの選手選考に臨むのは、これが2回目だった。

 埼玉県越谷市出身の金輪は、高校野球の名門校、埼玉工大深谷(現・正智深谷)を卒業後、立正大に進むが、1年で中退。スポーツ専門学校を経て、国内初の独立プロ野球リーグ、四国アイランドリーグ(IL)のトライアウトに合格し、愛媛マンダリンパイレーツに入団した。

 05年4月、四国IL開幕。金輪は4番打者として先発出場し、第2戦では、記念すべきリーグ第1号の本塁打を放った。スタンドに詰め掛けた観客の喝采(かっさい)が快かった。

 だが、その後の成績は芳しくなく、通算打率は2割4分。本塁打はリーグ第1号の1本のみ。シーズン終了後には、成績不振で戦力外通告を受けた。その時の衝撃は今でも鮮明だ。ただ、すぐに脳裏をよぎったのは、「これからどうやって野球をやろうか」という身の振り方についてだったことも覚えている。

 戦力外通告は何とか受け入れた。「一生懸命やった結果だ。潔く受け止めよう」と。だが、野球をやめることまではできない。四国にとどまり、06年春、誘いのあった高松市のクラブチーム「アークバリアドリームクラブ」に入団した。

 四国IL時代とは異なり、あくまでもアマチュアでのプレー。野球以外で生活費を稼ぐ必要があった。毎日、早朝から3時間の練習をこなしたあと、酒屋で配達の仕事をし、午後10時からまた3時間、練習し、ようやく床に就いた。自由な時間もない日々が続いた。

 クラブチームでもなかなか結果が出なかった。夏が過ぎるころまでは、試合のたびに内野ゴロの山を築いた。打撃フォームの改造が思い通りにいかなかったからだ。

 「こうまでして、なぜ野球をやっているのか?」。自問自答する時間も増えた。それでも、苦しい中で見つけた答えは、「やっぱり野球が好き」だった。

 小学3年から野球を始め、いつしか「絶対にプロ野球選手になる」と心に決めていた。理想の選手は、西武ライオンズなどで活躍した外野手、秋山幸二(現・福岡ソフトバンクホークス総合コーチ)。父に連れられて埼玉県所沢市の西武球場へ足を運び、グラウンドを縦横無尽に走り回る俊足巧打の秋山に胸を熱くした。

 いつかは日本プロ野球組織(NPB)へ。その世界を一度は見てみないと、野球をやめられない――。子どものころからの夢が、あきらめという言葉を金輪から消し去り、動かし続けた。

 社会人野球チームの日本一を決める日本選手権への進出権をかけた四国予選。06年10月15日、高松市内の球場で行われた決勝トーナメント1回戦で、金輪はようやく手応えをつかむことができた。乱打戦となった試合で金輪は七回、1点差に追いつく3点本塁打を放った。

 長いトンネルを抜けた。そして、金輪はやっと気付いた。「野球に専念できる環境を与えられながら、どこかに甘えがあった」。金輪は独立リーグへの再挑戦を決める。

 ILの本塁打第1号という栄光と、石をかじるような苦難の日々を経て、福井ミラクルエレファンツへの入団が決まった金輪。2回目の独立リーグで、再び大きな夢を追いかける。「同じ失敗を繰り返すやつはバカですからね。今度は波があっても、しんどい時にも、ひと踏ん張りできる。もう大丈夫です」と笑う。この春、エレファンツの第1号本塁打を福井の野球ファンへ届けるつもりだ。

(文中敬称略)

2008年1月4日  読売新聞)
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