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料亭「さわ田」女将 澤田 啓子さん <1> (2005年1月31日)

樺太 波乱への船出

 母の腕に抱かれ、暗い船底へ。辺りが騒がしくなった。大勢の人が私を抱き上げる。「かわいいね」と笑いながら――。


写真:写真説明
還暦を迎え自らの半生を語り始めた澤田啓子さん
 札幌の繁華街・ススキノで料亭「さわ田」を営む澤田啓子は今もこんな夢を見る。幼少のころ、ススキノの置屋にもらわれ、花柳界で半世紀を生きた女性の記憶は、樺太(サハリン)から函館へ向かう引き揚げ船から始まる。

 終戦後、樺太から引き揚げてきた時、まだ3歳でした。家族は西海岸の天内で暮らしていました。母によると、苦労の連続だったようです。引き揚げ後も苦労ばかりでした。そのことは今もはっきり覚えています。

 1945年8月9日、ソ連軍は、北緯50度の国境線を越え南樺太に侵攻を開始。13日には引き揚げが始まった。

 母は私を背負って祖父母とともに着の身着のままで逃げました。船の出る南西部の港町・真岡を目指したのです。2日間山中で過ごし、炭鉱の防空壕(ごう)へ。「お前たちだけ先に。後から行く」と、足をけがした祖父は一緒に入るのを拒んだといいます。足手まといになると思ったのでしょう。数日後、祖父の死を知らされたそうです。

 でも、これ以上の南下は危険と、結局、もとの道を引き返しました。帰路にソ連兵と行き合い、顔にシミを付けて、やり過ごしたといいます。ただ、乱暴され凄惨(せいさん)な最期を遂げた娘さんもいたようです。

 ようやく戻った家は、荒れ放題。すでにソ連軍が入っていたために、いつ何が起こるかわからない。すぐに逃げられるようにと、枕元にわらじを置いて寝たそうです。

 こうした生活は2年間続き、1947年春、真岡から出港した引き揚げ船は函館に向かった。

 母と私は和歌山県新宮市へ。紀伊半島の南東端、熊野川の河口に復員した父がいたからです。父は、私が樺太で生まれた直後に召集されました。


写真:写真説明
戦前の真岡の街並み。函館へ向かう引き揚げ船はここから出港した
「家の手助けしなくては…」 5歳でてんぷら売り

 しかし、幸せは長くは続きません。兵役で体を壊した父は、病気がちで定職に就けず、その日の生活にも事欠きました。私は家計を助けるため、母が揚げた野菜のてんぷらを売り歩きました。朝早く起きて、かごに入れ、1軒1軒回るのです。まだ幼い私を、かわいそうに思ってか、結構買ってくださいました。5歳か6歳のころだったと思います。弟が生まれたばかりで、「手助けしなくては」と子供ながらに思っていた記憶があります。

 電気代を払えずにろうそくをともしたり、借家を追い出されたりもしました。神社の境内にある離れのようなところに住まわせてもらったこともありました。半世紀が過ぎた今も、当時の記憶は鮮明によみがえります。その時味わった辛苦からは、今も自由にはなれないようです。

 澤田は数年前、新宮を訪れた。レンゲの花々をはじめ、川、池、小学校、神社……。もとあった家のあたりで目にした景色にはどれも見覚えがあった。往時の名残に、涙がこぼれてしかたなかった。

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