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夕張働く者の歴史を記録する会 山影 静子さん<11> (2006年3月13日)

住み続け 伝え続け

写真:写真説明
夕張の歴史を語り継いでいかなければと山影静子さん(夕張市の清水沢ダムで)
 街には、かつて石炭運搬用の私鉄が通っていた。1911年(明治44年)に開業した三菱鉱業大夕張鉄道もその一つ。87年に廃線になった後、静子は汽車の保存にかかわっている。

 廃線直後、父が「炭鉱の名残は汽車くらいしかない」と、汽車や駅舎などを払い下げるよう三菱に願い書を出したんです。当時はどうして不要なものを保存するのか疑問で、周りにも残すという風潮はありませんでした。

 父は翌年亡くなり、しばらくして夕張出身で札幌の製作所に勤める奥山道紀さんを中心に、夕張市内外から鉄道ファンが集まって保存の動きが出てきました。客車3台、荷台2台、ラッセル1台がほったらかしになっていたんですが、活動が活発になったのは大雪で客車1台が倒れたことです。

 みんなが一つになって起こした時、「やった!」となって。それから傷んだ客車のペンキを塗ったり、床や窓枠を直したり。当時50〜60人いたでしょうか。活動費は会費と本や写真集、絵はがき、ピンバッジなどを売って賄ってます。


写真:写真説明
三菱鉱業大夕張鉄道の機関車
 女学校への通学に、戦時中は作業場所への通勤にと、鉄道は思い出深い。

 冬の朝、南大夕張駅まで雪の中を泳ぐようにして走りました。小高い丘の上にあった駅より線路の方が低くて、直接ホームに駆け込みました。遅れそうになると、汽車が待ってくれるんです。蒸気機関車が駅に入ってくる様子は、それは迫力がありました。

 運賃は10銭でした。もともと人を運ぶためではなかったので、切符の裏に「生命の保証はしません」と書かれていたのを覚えています。石炭運搬はだんだんトラックになり、バスも登場して利用客は減り、廃線になりました。

 静子らの保存活動は鉄道ファンや道内を旅するライダーらに知られ、全国から汽車を見に来るようになった。

 誰かがインターネットで紹介したようです。客車のうち1台は明治時代に製造されたとかで、木造のすごく珍しいものだそうです。店にメッセージを書いてもらうノートを置いてますが、もう5、6冊になります。夕張にいて内地に移った人、父がラッセルの保線だった人、たまたま通りかかって、あまりの迫力に足を止めた人とかいろいろです。

 住所を書いてもらった人には手紙を出します。自然災害にあったとか近況を知らせてくれたり、スペインでの旅行記を送ってくれた人もいました。店の裏に使っていない家があるんで、毎年泊まりに来る人もいるんですよ。改めてノートを開いてみると、すごい出会いをしてきたんだなって思います。

 劇的な歴史を歩む夕張に生まれ、育ったことの重みを、静子は改めて感じている。

 炭鉱街の雰囲気は独特ですね。気質として人に頼るところがあるんでしょうか、裸一貫で来ても仕事も住むところもある。働きさえすれば何もしなくても会社が全部面倒みてくれるんですもの。その反面、みんな親類みたいに助け合います。

 閉山して、この辺はシャッターの街になりました。これからどうなっていくのか分かりません。夕張の人は実は今でも石炭という宝物の上に住んでいるけど、私たちの力ではもうどうすることも出来ないんですよね。時代の流れなんです。

 年と共に冬は雪が大変です。だけど夏は畑を作りながら楽しみもあります。季節ごとに姿を変える夕張岳や、シューパロ湖の眺めは素晴らしいです。この地に住み続けて、夕張の良さ、夕張に生きた人たちが築いてきた歴史を伝えていきたいと思います。

(おわり)

このシリーズは酒井麻里子が担当しました。

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