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「サザエ食品」会長 野村 とみさん<1> (2005年4月1日)

粋な 満州の姉さん

 おはぎを握り続けて半世紀。函館朝市の5坪の食堂から始めた「サザエのおはぎ」は、年商100億円の食品会社に育つ。たかがおはぎ、されどおはぎ。シリーズ「おんな語り」の2回目は、野村とみさんの〈おはぎ人生〉を紹介する。


 お嬢育ち 引き揚げ青森へ 朝市で慕われた気性


写真:写真説明
趣味の生け花で会長室に花を飾る野村とみさん
 私は、テレビのような「おしん」ではなかったんです。生まれた樺太(サハリン)でも、育った満州(現中国東北部)でも、家は裕福でしたから。父は理容のチェーン店を経営し、母も料亭などを切り盛りしてました。私は9人兄妹の4番目に生まれた2女で、小学校に上がるころまで乳母に預けられ、本当に「お嬢さん、お嬢さん」で育ったんです。

 そんな野村とみが、戦後のスタートを切った青森の朝市で、その筋の人たちから「満州の姉さん」と呼ばれるまでになるのだから面白い。

 朝市の私の店の前で、ヤクザ屋さん2人が帽子を前に置いて仁義を切っていたんですが、私はそんなこと分かりませんから、相撲でも取るのかと思って、「帽子を預かってあげましょうか」って声をかけたんです。驚いた様子で睨(にら)むので、「カボチャでも食べませんか」とその場をつくろったんですが、気勢をそがれたんでしょうか、店に入って来てカボチャを食べているうちに仲良くなってしまって。


写真:写真説明
野村さんが自慢の絵筆で描いたサザエのおはぎ
 店の前には、そうした人たちが毎日のようにたむろしてましたから、店のものをただで食べさせたりなんかしてるうちに、いつの間にか「満州の姉さん」と呼ばれるようになったんです。

 お嬢さん育ちの怖いもの知らずの気性は、後年、様々な局面で発揮されることになる。

 満州から日本に引き揚げて来たのは22歳の時でしたが、夢にまで見た日本は正直言ってがっかりしました。古里の日本は「神国」「五族の中核」と教えられ、立派な国だと思っていました。それが町は汚くて、小さい木造の家ばかり。満州では、どんな貧乏家でもレンガ造りでした。「帰って来なければよかった」と思ったくらいです。

 青森にいる叔父を頼って九州から汽車で行きましたが、広い荒野とか木が1本も生えていない所なんてないんですね。次から次と町や村がある。満州はどこまでも草原があって、汽車が近づくとキジが一斉に飛び立ったり、ウサギが走ったり、それは雄大でした。

 引き揚げ船が、九州の「はえの崎」という港に入った時です。「16歳以上の人はこっち」と言って女性が集められ、満州にいたころ乱暴されなかったかどうか調べるんです。台の上で検査される人もいました。あれはどんな意味があったんでしょう。嫌な思いをしました。

 日本へ引き揚げて来たのは、母、姉夫婦、兄嫁、妹ら8人。戦争を挟んで父は亡くなり、召集された兄や弟は音信が絶え、財産もすべて失った。

 ハルビンから引き揚げ船の出る港まで、何百キロ離れていたのか分かりませんが、汽車に乗ったり、歩いたりして向かいました。みんな米を2、3升ずつリュックに背負ってましたが、もう疲れて重たくて、歩きながら米を捨てたんです。もう欲も得もありません。後で分かったんですが、それをヨッタ、ヨッタとついてきた母が拾っていたんです。

 当時、母は軽い中風に当たっていて、歩くのが不自由でした。いつもみんなから少しずつ遅れて。遅れた者は置き去りにされて、そのまま死ぬしかないんです。だから、母は何か起きても置いていかれまいとして、夜も靴をはいたまま寝てました。その母が米を拾いながら歩いていたんです。その時、思いました。「母は強い」って。

 叔父の家に着いた翌朝、叔母が浜でちっちゃなイワシを買って来て、みそ汁にしてくれたんです。その、おいしかったこと。今でも忘れません。

 ハルビンを出てから3か月。1947年10月のことだった。

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