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「サザエ食品」会長 野村 とみさん<4> (2005年4月4日)

樺太・二股 乳母と暮らした幼少時代

写真:写真説明
林業の町だった樺太の二股駅舎(1931年ごろ、全国樺太連盟提供)
 私が生まれたのは、樺太の真岡に近い二股というところです。父も母も青森出身で、父は13歳で弘前の床屋に弟子入りし、母と見合い結婚して子供2人をもうけ、30歳の時に一人で樺太へ渡ったそうです。ほどなく理髪店を開き、母たちも父のところへ行くことになりました。

 父は優しい人で、私が学校へ行く時に髪をといたりしてくれましたが、母は厳しい人でした。子供心に怖かったという記憶があります。母は一代で財をなした大きな家の娘だったそうで、商売上手のやり手でした。二股で料亭を開き、金物屋や駅弁、食品などを扱う店も手がけました。

 野村は年子の弟が生まれたため、生後11か月で自宅向かいに住んでいた大工夫婦の妻を乳母としてあてがわれ、小学1、2年ごろまで乳母に育てられた。

 母は9人の子供を産み、いつも前に子供、後ろにご用かごといったような忙しい人でしたから、子供がいない向かいのご夫婦に私を頼んだんでしょうね。私は乳母のことを「ばば、ばば」と言って甘え、本当にかわいがってもらいました。おっぱいが出ないので米の汁なんかをお乳代わりにしたり、素肌で裸の私を背負って肌と肌を合わせ、ねんねこを着るといった具合でした。私を自分の子にしたかったようですが、父は「なんぼ子供が多くても、人にくれる子供はいない」と断ったそうです。

 実家に戻っても毎日のように乳母のところへ行っては甘えていたので、近くにいてはだめだと思ったんでしょう。仕事を世話してあげて、夫婦ともども真岡にやってしまったんです。乳母は私たちが満州に渡る時、真岡の港まで見送りに来てくれましたが、それが最後でした。

 順調だった商売は、父が知人の保証人になったことで暗転。家や店を手放し、満州に新天地を求めることになる。

 手放した家に同級生が住んだんです。裏庭に私たちが植えたホオズキがあり、ある日採りに行くと、同級生が「あんたの家でないんだから、採ったらだめだ」って言うんです。「家は売ったけど、ホオズキは売ってない」と泣きながら帰ったことがありました。理髪店と料亭は同じ敷地にあったんですが、取り壊された跡地は終戦まで盆踊り会場になったそうです。それくらい広かったんです。

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