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料亭「さわ田」女将 澤田 啓子さん <4> (2005年2月3日)

「半玉」の茶良子、2年後に「一本」立ち

写真:写真説明
半玉のころ。髪は「桃割れ」に結い、華やかなかんざしをたくさん挿すのが特徴だった
 澤田啓子は中学卒業後、見習いに。食事やお銚子(ちょうし)を運んだり、小間使いしたり。「半玉」と呼ばれるのは、玉代(花代)が半分だから。祇園の芸妓(げいぎ)になる前の舞妓(まいこ)と同じだ。

 澤田の母について見習いに出て、すぐに半玉になった。最初のお座敷は夢中で、よく覚えていません。初めて中振袖の着物を着たこと、緊張して足がしびれたことぐらいしか。名前は茶良(ちゃら)子。「出世するから」と、お料理屋の女将さんがつけて下さいました。

 芸者の名はユニークなものが多い。覚えやすく、親しみをもってもらえるからだ。「伝次郎」という男性の名前や、「おもちゃ」、「とんぼ」という名前も。

 「お銚子」と言われれば、すぐにお帳場へ。「おビール」と言われたら、「はい」と立つ。言われる前に体が動く。飲み物がなくなりそうになると、「はいどうぞ」と差し出し、お皿をさげるタイミングをはかります。そうでなければ、「気の利かない」と後で怒られます。

 半玉から2年で、芸者の試験です。満18歳にならないと芸者になれませんが、受験したのは数えの18、つまり17歳。内証で18歳を2年続けました。

 唄と三味線、踊りが必須。試験当日は、料理屋の旦那(だんな)衆や三業組合の事務方、芸者衆の前で披露する。

 無事一回で合格。「一本」になって、お料理屋さんでお披露目です。澤田の母の付き添いで、1日10数軒回りました。

 衣装は引き着といって普通よりすそが長い。ご祝儀はすべて置屋のお母さんに。澤田の母は衣装には人一倍お金をかけてくれ、いいものを着せてもらっていました。

 「一本」とは文字通り一本立ちした芸者。花代を一人前にもらえるようになる。時計のない時代に、線香一本の消える時間単位で金額を決めていたことから、お線香代とも呼ばれる。

 お花代をいただけるようになったとはいえ、自分の懐には入らず、芸者も半玉もお給金などないのです。その代わり、3食食べさせてもらい、身に着けるものは置屋さん持ち。髪結い代やお稽古(けいこ)代も出してもらいました。

 昭和30年代、札幌には3つの見番があり、300人の芸者が登録していた。見番とは置屋と料亭の取り次ぎ所。澤田のお母さん・千代丸は、そのうちの一つ「双葉会」の幹事を務めていた。

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