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「北海道文化服装専門学校」学園長 谷内 勝子さん<1> (2005年8月1日)

母の教え 人生編む

 和装から洋装へ、オートクチュールからアパレルへ。戦後に花開いた女性のファッションは、時代を色濃く反映しながら移り変わり、ライフスタイルにも大きな影響を与えた。シリーズ「おんな語り」の4回目は、昭和の服飾の世界を生きて来た谷内勝子さん(87)の歩みをたどる。


 漢字に裁縫…まるで学者 / 学校の礎、義姉が力に


写真:写真説明
自宅庭の花を見るのが毎日の楽しみという谷内勝子さん
 小さいころから、編み物や縫い物は好きでしたね。小学校に入る前から母に教えてもらって、かがり縫いをしてハンカチを作ったり、羽織のヒモを編んだりしていました。

 母は頭のいい、しっかりした人で、私たちきょうだいは小学2年まで漢字は母に習って、母は学者だと思っていたんです。裁縫も上手で、家族の着物は全部自分で縫っていました。当時はどこの家庭もそうでした。「着物を縫えない女は60年の不作」なんて言われていた時代でしたから。

 戦前の尋常小学校では、女子は4年になると和裁の教科があった。

 和裁の授業で、ドキッとしました。クラスのみんなが右手で縫っているのに、私だけ左手なんです。私は字を書いたり、はしを持つのは右手ですが、裁縫は左手。ボール投げも和ばさみを持つのも左手で、それまで左利きのことは気にもしなかったし、母から注意されたこともありません。でもクラスで私ひとりだけでしょう。もう恥ずかしくて、右手で縫えるように毎日練習しました。

 小学4年の時にはお祭りに着る自分の着物を縫いましたし、高等1年の終業式では私がクラスを代表して通知箋(せん)をもらうことになり、式にはくはかまを縫い上げました。はかまは難しかったですが、母が「教えてあげるから、縫ってごらん」と言ってくれて。母から教えてもらったことはたくさんありますが、裁縫が私の原点になったことは確かです。

 勝子の母は佐渡で生まれ、14歳の時に旭川市で建築請負の仕事をしている親類を頼って来たという。

 奉公で入ったのか、行儀見習いで入ったのか、当時のことはよく分かりません。女だてらに北海道で一旗揚げようと思ってやって来たと聞いたこともあります。母らしいと思いました。そこの奥さんから、礼儀作法や読み書き、そろばん、縫い物などを習い、父ともそこで知り合いました。

 母は学校が嫌いで、先生が迎えに来ても行かなかったそうですが、学校に通っていた兄姉の教科書を、母のほうが先に覚えてしまうという具合だったらしいです。何でもできて手際のいい人でした。

 勝子は1918年(大正7年)6月、兄2人、姉3人の四女として士別市で生まれた。

 姉2人は幼い時に死んで、残った姉も女学校3年の時に、逓信局に勤めていた長兄も25歳で死にました。私が小学4年と高等1年の時です。6人の弟妹のうち、すぐ下の妹も女学校を卒業した翌年に死にました。みんな結核でした。私も19歳の時に肺浸潤にかかってしまって、結核の家系だったんでしょうか。きょうだいが早くに病死したせいではないんですが、看護婦にあこがれて、赤十字の看護婦になりたいと思っていました。


写真:写真説明
自宅の2階に開設した当時の「北海洋裁専門学院」(1941年)
 勝子は後に看護婦になり、それが縁で札幌市でミシン販売店を営むいとこと結婚。1939年(昭和14年)、現在校の前身の「北海洋裁専門学院」を開設し、夫と二人三脚の歩みを始める。

 初代の学院長を務めたのは夫の姉でした。義姉は当時、服飾手芸の第一人者といわれた山脇敏子先生が校長をしていた東京の日本服飾美術専門学校で洋裁の先生をしていましたが、夫が札幌に呼び寄せたんです。東京で磨いたセンスは抜群で、フランス式のパターンを取り入れて、うちの学校の礎を築いてくれました。

 義姉が札幌駅に降り立った時の姿は、今でも目に焼き付いています。黒のコートに帽子をかぶり、パンプスをはいて、モード雑誌からそのまま抜け出したような洋装でした。そのころは着物がほとんどでしたから、本当にきれいですてきで。しばし見とれていました。

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