ニュース 速報 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
現在位置は
です

本文です

料亭「さわ田」女将 澤田 啓子さん <6> (2005年2月6日)

赤坂で再出発 「待合征次」の世界へ

写真:写真説明
夜の社交場、花柳界がにぎわいを見せた1960年代の赤坂かいわい
 1965年、赤坂に出た澤田啓子は「時清土(とききよづち)」という置屋に入った。芸者衆を乗せた人力車が行き交い、花街の風情が残っていた。赤坂では、料亭からの花代は一括して見番が集金し、置屋に支払われていた。料亭も札幌とは異なり、料理は仕出屋から取っていた。料亭は「お茶屋」、「待合」と呼ばれ、「待合政治」という言葉もここから生まれた。

 洗練された方が多く、風格と貫録も備えていらっしゃいました。圧倒され、そばにも寄れずにいました。札幌で一本になってから5年でしたが、再び一からのスタートでした。

 「中川」という料亭で見習いです。各界の著名人が利用なさっていました。ほかにも一流料亭が並んでいましたが、そのほとんどがなくなってしまったようです。新聞でしか名前を知らない方がお見えになります。岸信介さん、佐藤栄作さん、田中角栄さんといった歴代首相の方々をお見かけしましたし、森繁久弥さん、高橋圭三さん、お名前を挙げたら切りがありません。高橋さんは本当に楽しいお酒でした。

 札幌のお座敷でよくご一緒した北海道出身の代議士もいらっしゃいました。ある日のこと、ボストンバッグを携えていたので不思議に思っていたら、お会計の段になって、中から札束をどんどん積み上げます。一年に一回のお支払いか、あるいは何年分かをまとめてなさっていたのでしょう。そんな大金を目にしたのは初めてでした。

 1960年代は、ナイトクラブやキャバレーの全盛期。お座敷がひけると、そのままの格好でお客さんと、ホテルニュージャパン地下の「ニューラテンクォーター」などに足を運ぶこともあった。

 踊りでは舞踊劇を特徴とする名古屋西川流を学びました。「名古屋をどり」を創設したことで知られる二世西川鯉三郎家元に師事する機会もあり、その内弟子であった西川鯉次郎師匠が、見番でのお稽古(けいこ)の際にじかに教えて下さいました。

 お座敷での余興にしても、相応の芸がなければ踊らせてもらえません。ここでも必死になり、半年くらいで出してもらえるようになりました。

 ちなみにそのころの余興には、踊りのほかに講談や落語もあって、宝井馬琴さんら芸人さんたちも出ておられました。

現在位置は
です