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四島の語り部 若松 富子さん<6> (2005年11月7日)

根室大空襲…家も貸家も焼けた

写真:写真説明
空襲で焼け野原と化した根室市街地(根室空襲研究会提供)
 1945年(昭和20年)7月14日、根室が初めて米軍の空襲を受けた。しかし、被害は港に集中し、市街地はほとんど無事だった。

 初日の空襲が終わると、みんな「なんだこんなものか」とばかにしている様子で、警戒を強める雰囲気はありませんでした。ところが翌日の朝8時ごろから、友知沖に停泊した軍艦から飛行機がどんどん飛んできて大爆撃を始めたんです。

 初めは家の防空壕(ごう)に、父、母、妹と一緒に隠れておりました。防空壕は母が掘ったもので、4人では手狭でした。そのうち家に焼夷(しょうい)弾が落ち、防空壕の中にも煙がどんどん入ってくるんです。「もういかん」と父が叫び、外へ飛び出しました。私はリュック一つ、母は御用かごを背負って続きました。

 米軍のグラマンが根室の上空をブンブン飛び回っていました。晴れていた空が家の燃える煙で真っ黒でした。ダダダダーッと機関銃の弾が降り注ぎ、映画みたいに地面に火花が走っていくんです。家の軒先に隠れて弾をよけ、すきを見て軒の間を走りながら必死で逃げました。

 ひとまず花咲国民学校の裏山に逃げ込みましたが、人が大勢いて長くはいられません。父の知人がいる友知まで歩き続け、防空壕で夜を明かしました。

 翌朝、父と一緒に街の様子を見に行きました。市街地は焼け野原で、防空壕や押し入れの中で死んでいる人がいました。手足がなくなった人を、泣きながら焼いているおじさんもいました。

 7月15日の空襲では根室市街地の7割が焼け、210人が亡くなった。生活基盤をなくした人々は、根室を一時離れざるを得なかった。

 父が根室に建てた家や貸家は、すべて燃えてしまいました。親類では将来を期待されていたいとこの常次郎さんが死に、同級生の1人も亡くなりました。

 雨露をしのぐところもなく、女学校も休校です。とりあえず家族全員、番屋のある志発島に戻ることになりました。根室では食べていけませんが、島には食料も残っていたからです。

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