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料亭「さわ田」女将 澤田 啓子さん<9> (2005年2月9日)

 澤田啓子は芸者に戻った。札幌では置屋には入らず、自前の芸者に。風呂がないアパートを借りての再出発だった。


写真:写真説明
昭和40年代のススキノ歓楽街。このころから、札幌の花街文化は、陰りを見せ始める
 芸者を続けるには、お金が必要。お披露目もしなければなりません。とどのつまり泣きついた先は、赤坂で別れたはずの先生でした。ほかに頼れる先などなかったのです。先生は黙ってわがままを聞いてくれました。おかげで、もう1度「茶良子(ちゃらこ)」として出られることになりました。お座敷では、さすがに昔のままというわけにはいきません。

 札幌の花柳界を去って8年。狭い世界ですから、これまでのいきさつなどとうにお姉さん方の耳に入っています。「こんばんは」と挨拶(あいさつ)しても、返事一つありません。裏では、「挨拶もしないで」とか、「赤坂に出てたからって、昔とは違うのよ」と陰口。風当たりは強いものでした。

 お座敷では同情もされました。優しい言葉をかけて下さる方や、「子供に何か買ってやれ」と言ってご祝儀を下さる方も。こらえていてもつい涙腺が緩んでしまいます。すると今度は、「いいわね。ひと泣き5万、10万だから」と皮肉です。私にはもう後がありません。子供のためならどんな我慢も。自分を奮い立たせては、「今に見てなさいよ」と、歯を食いしばりました。

「先生」の奥さんから救いの手

 来る日も来る日も働き通し。体重は38キロまで落ち、風が吹けば飛ばされそうなほどです。ある時、思いもかけずに救いの手を差し伸べて下さる方が現れました。先生の奥様です。中島公園の近くの空き家を、破格の値段で貸して下さったのです。家全体が傾き加減で床は斜めになっていましたが、私たち一家にとってはありがたいお話です。

 そして、「店を開いたら」という話が舞い込んできました。あるクラブのマスターの口添えで、とんとん拍子に話が進んでいったのです。

 次はお店を手伝ってくれるパートナー。頭に浮かんだのは妹でした。高校を卒業する時期で、肉親の方がいいと考えたのです。決断したら即行動。「2人でやりたいから、私に任せて」と言うと、実母も断れなかったようです。「困った時はみんなで助け合わなきゃ」と後押ししてくれて、妹も決心してくれました。

 1974年4月15日、ススキノのクラブ「さわ」がオープン当日を迎えた。

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