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“シベリア地獄”鎮魂の絵画<上>

寒さと飢え 戦友の無念伝え

苦しかったシベリア抑留中のことを、孫の千田さん(右)に説明する川田さん(さぬき市で)

 雪が積もる月夜の中、長い列を作り収容所に向かって歩く捕虜。真っ暗な炭坑で黙々と石炭を掘る男たち――。「戦中より戦後の方がつらかった」。シベリア抑留中の記憶をキャンバスに描き続ける川田一一(かずいち)さん(83)(さぬき市)は、劣悪な環境で命を落とした仲間の無念を伝えている。

 17歳だった1943年、中国東北部(旧満州)の南満州鉄道に入社後、45年4月に徴兵され、高射砲隊に入隊した。戦後、旧ソ連軍の捕虜となり、約4年間、シベリアに抑留された。

 氷点下60度にもなる極寒の地。収容所では約40人が同じ部屋で寝泊まりし、風呂には入れず、頭にシラミがわいた。来る日も来る日もばい煙が舞う炭坑で労働を強いられ、1回の食事は具がほとんどないスープと、マッチ箱ほどのパンが一つ。寒さと飢えで仲間は次々と倒れ、死んでいった。

 「死んだ方が楽になるかな」。そんな時、鉛筆でセメント袋の切れ端に、「死ぬなよ、生きて帰れよ」と訴える母の顔を描き、心を保った。

 故郷を語り合った北海道出身の仲間は3年後、栄養失調で息絶えた。雪は氷のように固く凍り、やむなく雪の中に埋葬した。空腹にもがき苦しんだまま硬直した顔、膨らんだ腹。「北海道の小豆が食べたい」。その言葉が今でも頭から離れない。

      ◇

 49年8月、突然、ナホトカ行きの列車に乗せられ、収容所に入れられた。ロシア人に「ダモイ(帰国できる)」と告げられ、20日後に解放された。「再び捕まってたまるか」。一目散に引き揚げ船に駆け込んだ。約800人が乗った船内には、日本人の船員と看護師がおり、赤飯が振る舞われ、まるで天国のようだった。

 数日後、舞鶴港(京都府)が見えてくると、皆、甲板に飛び出した。紅葉した山々が美しく「きれいやなぁ」と口々に言い合った。岸壁は、帰りを待ち、日の丸の小旗を振る家族らであふれかえっていた。「二度と踏めないと覚悟していた日本の土」。入隊以来、5年ぶりに再開した父と妹と、いつまでも抱き合った。

      ◇

 農業で生計を立てていた60歳を過ぎた頃、「じん肺」と診断された。4年もの炭坑労働で肺を患っていた。「元気なうちに、抑留の実態を伝えなければ」。何かに追われるような気持ちで、幼い頃から好きだった絵を学び始めた。キャンバスに向かうと、亡くなった友の顔が浮かんだ。「シベリアの奥地でさまよう仲間の魂を慰めたい」。いつしか、そう思うようになっていた。

 川田さんは今年7月、画家で孫の千田豊実さん(27)と初めて展覧会を開いた。追悼する「供養」は、シベリアの大地に残された頭蓋(ずがい)骨の上にお遍路さんと石仏を描いた作品と、無縁仏の墓で作られたピラミッドが真っ赤な夕焼けに照らされた二部作。「シベリアに行きたいが年齢的にかなわない。せめて絵で供養したい」と話す。

 千田さんもシベリア抑留の作品を出品した。「絵を介して、初めて祖父の経験を知った。戦争を二度と起こしてはならない」。川田さんの思いが、少しずつ届き始めている。

      ◇

 15日で終戦から64年を迎える。戦争を知らない世代が多数を占め、平和を当然のように享受できる時代になっても、あの時を生きた〈体験者〉の心には、悲惨な記憶が鮮明に刻まれている。「若者に同じ悲惨さを味わわせたくない」。次世代に伝えようとする人たちを紹介する。

2009年8月13日  読売新聞)
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