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草はみ守った娘2人<下>終戦の10か月後に満州から引き揚げ 井上ゆり子さん(善通寺市)ドアをけ破り、土足の兵隊たちが押し入って来た。銃を突きつけられ、「撃ち殺すぞ。時計と万年筆を出せ」。日本人が住む裏の家からもどなり声が聞こえる。怖がる幼い娘2人を両手で抱きしめ、目を閉じてじっと耐えた。「何があってもこの子たちを守らなければ。日本に帰らなければ」 善通寺市で1950年から饅頭(まんじゅう)店を営む井上ゆり子さん(92)は、戦後、満州(現中国東北部)から帰国するまでに過ごした10か月の出来事を、64年たった今も夢に見て目覚めることがある。 39年、満州の日本人学校で教頭をしていた末義さんと見合い結婚した。海を渡るのに迷いはなく、見知らぬ土地での新たな生活に心躍った。着いたのは「まるで高松のような町」。炭坑のふもとに大きな平屋の家屋が立ち並び、手入れされた庭の間を馬車と日本人が行き交った。 だが、敗戦がすべてを変えた。学校で玉音放送を聞いた末義さんが家に駆け込んできた。「日本が負けた。生きては帰れん。4人で自殺せんか」。2日後、中国と旧ソ連軍の略奪が始まった。 「子どもたちのためにも生き抜く」ことを決め、丈夫な柔道着1枚を身に着け、中国人炭坑労働者が住んでいた長屋に知人の日本人数十人と息を潜めた。人目を避けながら、昼間は子どもを背負って中国人から買った葉巻を売り歩き、野原に生えている草を食べて空腹をしのいだ。夜はむしろの上で雑魚寝をしたが、朝までがとてつもなく長く感じた。 ある夜、いつも聞こえる赤ちゃんの泣き声と母親のあやす声が止まっていた。夜が明けると、母子は手をつないだまま息絶えていた。弔う手だてがなく、むしろに包んだ2人の遺体を野原に安置した。「このままでは餓死してしまう」。母国からの情報はなく、「見捨てられた」と絶望しかけていた。 10か月後、「アメリカが満州南部の葫蘆(ころ)島から引き揚げ船を出している」。家族4人、身動きできないほどの満員列車に揺られて島に向かった。数日後、引き揚げ船が到着した博多からは列車と船を乗り継ぎ、善通寺に着いた。出迎えた両親は涙で声にならず、すぐに五右衛門風呂を沸かしてくれた。温かい湯の中につかりながらも娘2人は落ち着きがなかった。 「もう怖くないんよ」。46年6月、井上さんの戦争がやっと終わった。 帰国から2年後、次女を病気で亡くし、末義さんは20年前に他界したが、あの時、娘2人を抱きしめた手は、さらに3人の子どもと、孫とひ孫12人を包み込んだ。饅頭店を営み、がむしゃらに働いた手と顔には、深いしわが刻み込まれた代わりに、満州の強い日差しでできた無数のしみは薄らいできた。 だが、戦争の記憶が消えることはない。ことある度に、孫らに満州から引き揚げるまでの苦しかった体験を話して聞かせてきた。 終戦から64年を迎えた15日、井上さんは同居する子どもと孫に、「あんたらが生まれてきたということは、戦争の中、必死に命をつないだ世代がいるんぜ」。優しく話しかけた。生きている限り、語り継ごうと思っている。(この連載は、西川眸、黒川絵理が担当しました) (2009年8月16日 読売新聞)
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