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(55)100年祭 国際貿易都市への一歩

今からちょうど半世紀前の1958年(昭和33年)5月、横浜の街は、相次いで行われた開港100年記念のイベント一色になった。

花火大会とみなと踊り大会のプログラム(横浜開港資料館「石井光太郎文庫」から)。5月11日開催予定だったが、雨天のため17日に順延された

 5月3日に市民総合体育大会が開かれ、同9日には大横浜展が始まった。各区もそれぞれ記念行事を手がけ、小学校の児童らによる旗行列、装飾自動車による祝賀パレード、芸能コンクール、ミスコンテストなどが行われた。

 様々な記念事業の中、盛り上がりがピークに達したのは、5月10日の記念式典だった。皇太子さま(現在の天皇陛下)をお迎えした横浜公園平和球場(現在の横浜スタジアム)は3万5000人の市民らであふれかえった。翌11日の国際仮装行列には110団体、約70万もの人々が押し寄せ、17日の花火大会・みなと踊り大会も約30万人を集めた。

 当時の横浜市は、米軍の接収地を多く残しながらも人口120万人を超え、貿易額、工業生産額ともに戦前の水準を大きく上回って、戦災復興から高度成長へと大きく舵(かじ)を切ろうとしていた。

 55年には、戦前からの悲願だった国鉄根岸線・桜木町駅以南の延伸工事が着工され、根岸湾の臨海部の埋め立てが始まり、本格的な工業化が始動し始めていた。貿易振興を図るべく、山下ふ頭、出田町ふ頭など港湾施設の拡充も動き出した。

 さらに57年には、計画人口250万人の「横浜国際港都建設総合基幹計画」が発表された。開港100年記念祭は、戦災復興を成し遂げて次なる飛躍へと進むため、エネルギーに溢(あふ)れた横浜を内外にアピールする契機となった。

 また、横浜市は国際社会にも、大きな一歩を踏み出そうとしていた。開港100年記念式典前日の58年5月9日にアメリカのサンディエゴ市と姉妹都市締結し、友好の鐘を贈った。5か月後の同10月には、開港100年記念の一環として、アジア・中近東諸国19か国が参加した国際貿易会議が開かれ、貿易拡大や経済協力、友好親善について活発な討議が行われた。

 さらに、県や地元財界の協力で、大さん橋に面する英一番館跡地(山下町1番地)にシルクセンターが建設され、国際貿易港・横浜の象徴として59年3月に開業した。これに合わせて、国際貿易会議欧米の部が開かれ、23か国101人が参加した。この時、シルクに関係の深い仏・リヨン市からも代表が出席し、翌60年に姉妹都市の締結式が行われた。

 このように、横浜開港100年記念事業は、横浜市が世界的な国際貿易都市として歩み出すきっかけともなったのである。

(横浜開港資料館 松本洋幸)

 ◆シルクセンター・文体 詰め込まれた繁栄の記憶 

横浜文化体育館で行われた東京五輪の女子バレーの写真を見せる松沢さん(横浜文化体育館前で)

 大さん橋前の9階建てビルが、開業から半世紀を迎えるシルクセンターだ。「当時は周りに高い建物がなく、大さん橋に降り立った外国人がまず、良質な絹製品を手に入れようと立ち寄った」。「シルク博物館」で10年間、博物館部長を務めた小泉勝夫(71)が振り返る。

 横浜は戦前、生糸輸出で飛躍的な発展を遂げた。「戦争で荒廃した街を、生糸と観光で盛り上げよう」。そんな願いが込められたのがシルクセンターだった。県や横浜市の台所事情は厳しかったが、開港100年というタイミングが追い風になった。

 ビルには生糸取引所や業者のテナントなども入居し、まさしく生糸産業の一大拠点になった。信州大(長野県)で養蚕技術を学んだ小泉は、愛知県の蚕業試験場に就職して、自分の学識を社会に役立てようと意欲にあふれていた時、センター開業を聞いた。「そんな立派な施設が横浜にできるのか。日本の生糸産業をリードしてほしい」。うれしさと期待感がこみ上げた。

 しかし、中国など海外の安価な生糸に押され、輸出は減るばかり。1970年以降、生産量の落ち込みも表面化し、センターでは2006年、生糸取引所の後身である横浜商品取引所も閉鎖された。神奈川県の蚕業試験場に転職していた小泉は、1997年からセンターで博物館部長を務めた。「生糸産業の衰退を時代の流れと受け止めるのははがゆい」と話し、日本の生糸文化を今後、どう伝えていくかに思いを巡らしている。

        ◇

シルクセンターを背に思い出を語る小泉さん

 こけら落としは62年、力道山と外国人レスラーのプロレス対決だった。JR関内駅近くの横浜文化体育館には、1万人ものファンが詰めかけた。その興奮から2年後には、東京五輪バレーボール競技の熱戦も繰り広げられた。だが、開港100年の事業で建設された「文体」は、スポーツ大会だけでなく、有名人のコンサートや成人式などでも、市民に親しまれた。

 約5000の観客席は当時、県内最大規模。「文化やスポーツを十分に楽しめる場が欲しいという市民の念願をかなえてくれた」と横浜市体操協会名誉会長の松沢賢吉(76)は語るが、現在、老朽化は否めない。

 Y校(横浜商高)教諭だった71年から市民向けの体操教室を開いている松沢も「寂しい気はするが、市民のためにも早く建て替え、“再生”してもらいたい」と話している。(敬称略、野村順)

2008年3月23日  読売新聞)
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