|
| 神奈川 トップ | 企画・連載 | 神奈川の写真 | 神奈川の天気 | イベント情報 | リンク | 取材網 | 読売グループ |
| 天気 | 地図 | ショッピング | 雑誌 | 交通 | 写真 | 動画 | データベース | サイト案内 |
(4)港崎遊郭 繁栄へ幕府建設命令
日米修好通商条約が締結され、長崎、函館、神奈川(横浜)の3港が、1859年(安政6年)6月から貿易を行う開港場(かいこうじょう)に決まった。 外国公使団が神奈川湊の開港を主張する中、幕府は、開港を3か月後に控えた同年3月から、横浜開港場の建設を突貫工事で進めた。東海道と横浜を結ぶ横浜道を造成し、開港場のほぼ中央に外交・貿易事務を行う運上所と役宅を建設した。 また、江戸、神奈川、保土ヶ谷、駿府などの商人に横浜出店を命じ、開港を機に一獲千金をもくろむ商人達も押し寄せた。 ◎ ◎ 町づくりの一環として、幕府が建設したものの一つに遊郭がある。幕府は、外国人を横浜に引きつけ、また町の繁栄を図るため、江戸の吉原に似た遊郭の建設を企てた。 遊女町の建設予定地を、取り締まりの便宜上、港や市街地から離れた太田屋新田の一角(今の横浜スタジアム付近)とし、遊女屋建設に名乗りを上げた品川宿の旅籠(はたご)屋佐吉らに建設を命じた。沼地の埋め立てなど工事は難航したが、1859年11月、遊郭は完成した。 太田屋新田のなかの遊女町は、港崎町(みよざきちょう)と呼ばれ、工事を担当した佐吉は、港崎町名主となった。大門を構え、会所を設けるなど、江戸の吉原を模倣した遊郭には、多くの遊女屋が軒を並べていたが、なかでも佐吉が経営する岩亀楼(がんきろう)は、ひときわ豪華で、横浜名物の一つだった。 ◎ ◎ 浮世絵には、港崎遊郭が数多く描かれている。俯瞰(ふかん)図として描かれたものの一つに、五雲亭貞秀(ごうんていさだひで)による「横浜本町景港崎街新郭(ほんちょうのけいみよざきちょうしんろう)」がある。 図の中央右下の橋は吉田橋(〈1〉)で、橋を渡って関門を通り、太田屋新田の堤(〈2〉)を通ると横浜の市街地に入る。市街地の中央、運上所の横を通る道(〈3〉)を太田屋新田に向かうと、新田のなかを港崎遊郭へ続く道があり、道は掘割で囲まれた遊郭への唯一の出入り口である大門(〈4〉)へ通じている。 ◎ ◎ 1866年(慶応2年)11月、大火のため、完成から10年足らずで港崎遊郭は焼失した。翌年、吉田新田の沼地を埋め立て、吉原町遊郭(今の横浜市中区羽衣町付近)へ移転。1871年(明治4年)にも再度火災に遭い、高島町(現在の横浜市西区高島1、2丁目)に移転する。 貞秀が描いた整然と並ぶ市街地の町並みと、満開の桜に囲まれた遊郭の絵から、悲惨さはうかがえない。 しかし、遊郭には遊女屋へ売られ、そして買われた遊女たちがいた。港町横浜の歴史の陰には、恵まれない生涯を過ごした女性たちの人生があった。(横浜開港資料館 石崎康子) ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オフィス街に囲まれた横浜市中区の横浜公園の一角。古ぼけた石灯籠(どうろう)がひっそりと立っている。刻まれているのは「岩亀楼」の文字。周囲を低木に囲まれ、気に留める人もいない。江戸末期、この場所に遊郭があったことを物語るのは、いまやこの灯籠だけとなった。 横浜市南区の妙音寺に保管されていた灯籠が、この場所に移設されたのは1982年12月のこと。横浜市関係者を含め数人で小さなセレモニーを開いた。参加者で存命なのは、前住職の妻の荒川富佐枝(59)だけ。荒川でさえ、寺に灯籠が持ち込まれたわけや、今の場所に移されたいきさつは分からないという。 「遊女は、ほとんど歴史の表舞台に立つことはできなかった。悲劇の女性が多かったのでしょう」 灯籠を元の場所に戻したことが、遊女の供養につながれば、荒川はそう考えている。 ◎ ◎ 遊郭が衰退した後、弘明(ぐみょう)寺などと並んで関内では花柳界が栄えた。通りには料亭が軒を連ね、着物姿の芸者が行き交い、お稽古(けいこ)の三味線の音も響いていたという。 横浜最後のお座敷芸者と言われる五木田京子(83)は、戦後間もないころに東京から横浜へ移り住んだ。今も料亭から声がかかれば、自慢の三味線や歌を披露する。 座を盛り上げるコツは、客の性格を見抜くこと。お酌をしながらそれぞれの客の立場をしんしゃくし、控えめな客には「そろそろ発声の方は」と歌うように水を向ける。そんな工夫をしながら約70年の芸者人生を生き抜いてきた。 「人と人との間に情があったというか、まろやかで親しみのある雰囲気がにじみ出ていた」。五木田の目には、今も華やかな花柳界の様子が焼き付いている。 ◎ ◎ 関内地域は官公庁や金融機関が立ち並ぶビジネス街として発達を遂げた。夕暮れ時になるとバーの看板に次々と灯がともり、仕事帰りのビジネスマンがドアの奥へと消えていく。 バーテンダーの大村麻子(30)が、関内に店を構えたのは2002年8月。「接客のプロになって、自分の城を持ちたい」との夢をかなえ、近くに会員制のバーもオープンさせた。「仕事でうまくいった」「リストラされそうだ」。店を訪れた男たちは仕事の明暗を語っていく。 「いつでも、すべての人の心に希望の光を」。大村は、願いを込めて「光」と名付けたカクテルを作った。ジンをベースにすももの黄色いリキュールを加えたカクテルは、薄暗い店内でひときわ輝いて見える。口に運ぶと甘酸っぱい香りが広がり、全身に染み渡って、仕事の疲れを癒やしてくれる。 「関内は物事をわきまえた大人が集まる街。そういう伝統は、今も昔も変わらないのでは」。大村は、ビジネスマンの社交場となるバーを目指している。(敬称略) (吉良敦岐)
|
地域のお墓情報サイト
支局から |
| ▲この画面の上へ |
|
会社案内|
サイトポリシー|
個人情報|
著作権|
リンクポリシー|
お問い合わせ| YOMIURI ONLINE広告ガイド| 新聞広告ガイド| 気流・時事川柳(東京本社版)への投稿| 見出し、記事、写真の無断転載を禁じます Copyright © The Yomiuri Shimbun. |