|
| 高知 トップ | 企画・連載 | 高知の写真 | 高知の天気 | イベント情報 | リンク | 取材網 | 読売グループ |
| 天気 | ショッピング | 雑誌 | 交通 | 写真 | 動画 | データベース | サイト案内 |
六の巻 樋口真吉――龍馬見抜く隠れた英傑師弟で解明6年ほど前のこと。「今、気になっている人です」「まずは10年、樋口をやりなさい」。当時はほぼ無名だった四万十市出身の幕末の志士・樋口真吉が世に出るきっかけは、郷土史家の師弟が交わし合ったこの一言だった。 それから師弟が解明した真吉の人物像は、他の幕末英傑とひけを取らない。若い坂本龍馬の才能を見いだし、脱藩中の龍馬を援助したこともある。身長1メートル80の大男で剣豪。開いた塾では門弟が1000人を超えた。身分は低いが、前土佐藩主山内容堂に認められ、龍馬と薩長同盟を成した中岡慎太郎、藩重臣の後藤象二郎らとも交流し、臆せず意見を言って実行した。藩の<密偵>として京都で諸藩の動きを内偵し、西郷隆盛ら要人とも面会した……。 数年前から県内で真吉の展覧会が行われるようになり、昨年末は龍馬暗殺の様子を日記に書き留めていたとして大きく注目された。 ◇ 師は、黒潮町伊田の小野義広さん(92)。旧東京帝大の国史学科で学び、帰郷して家業の酒造や農業のかたわら、県西部で地道に古文書を解読し、研究会も開いてきた。弟子は南寿吉さん(59)(高知市)。小野さんが6年前、素人ながら古文書を手早く読める人がいるといううわさを聞き、南さんが働いていた四万十市の職場を訪ねたのが、2人の出会いだった。その後はたびたび情報交換をするようになり、南さんは分からないことがあれば小野さんに意見を求めた。 最初に真吉に興味を持ったのは南さん。小野さんと出会う1年ほど前、幕末の古文書を調べるうちに真吉の存在を知り、ふと、調べてみようと思い立った。当時、インターネットで検索しても12件しかヒットしなかったが、四万十市立郷土資料館が真吉の日記「遣倦録(けんけんろく)」(1861〜67)、「日新録」(1867〜68)を所蔵していると分かり、コピーを入手した。 遣倦録の冒頭に書かれた4文字に度肝を抜かれた。「坂竜飛騰」。地上の竜が飛び立つことを表す「蟠(ばん)竜飛騰」をもじった造語だろうが、書かれたのは龍馬が脱藩する直前。後の活躍を予言したような言葉に、南さんは「龍馬を見抜いた男だ」とうなった。 小野さんを見知った後、南さんは真吉の日記のコピーを持って小野さんを訪ねた。「これは面白い」と小野さんも目を輝かせ、大仕事であるとの覚悟を諭すかのように、「まずは10年」と述べた。 小野さんは、数か月かけて樋口の約7年間分の日記を読み下し、原文とともにパソコンで冊子を作成。南さんはそれを手に、樋口に関する資料を求めて県内の資料館や旧家を渡り歩き、多方面から人物像をあぶり出していった。 ◇ 「樋口がこのまま忘れ去られるのは惜しい。高知は龍馬だけじゃない」と小野さんは力を込める。研究の意義について、南さんも言う。「四季を通じて人を呼べるのが歴史。今に生かさないと意味がない。混迷した今だからこそ、北極星のようにどっしり構えた樋口の魅力を広め、県西部や高知を元気にしたい」 「10年」の約束の期間は、半分を過ぎた。それでも、研究はまだまだ尽きないと、2人は確信している。(畑矢今日子) (終わり) <メモ> 樋口真吉(ひぐち・しんきち) 1815〜70年。中村(現四万十市)の足軽の長男。諸藩を巡って砲術や槍術などを学び帰郷。中村で家塾を開き、門弟1000人を抱えたとされる。土佐西部での勤王活動の中心的存在となり、61年の土佐勤王党結党では門弟を加盟させた。62年、藩役人の徒目付(かちめつけ)となり、翌年は前藩主山内容堂に江戸から随行。67年、京都へ赴任し、各藩の重役と会うなど緊迫した情勢を探った。68年は戊辰戦争に従軍。明治維新後の70年、公家・徳大寺家の公務人となるが、その年に東京で病死した。(肖像は四万十市立郷土資料館提供) (2011年1月8日 読売新聞)
|
|
| ▲この画面の上へ |
|
会社案内|
サイトポリシー|
個人情報|
著作権|
リンクポリシー|
お問い合わせ| YOMIURI ONLINE広告ガイド| 新聞広告ガイド| 気流・時事川柳(東京本社版)への投稿| 見出し、記事、写真の無断転載を禁じます Copyright © The Yomiuri Shimbun. |