NHKから地元テレビへ
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「UTYカラオケ大賞」に審査員として出演する金丸さん(左から2番目)。右端は中山大三郎さん |
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UTYは、1969年に会社設立、70年に放送が開始された県内二つ目の民間テレビ放送局だ。初代会長は私の父・金丸信、初代社長は、やはり衆院議員を務めた政治家で富士急行グループの総帥、堀内一雄さんだった。一雄さんは、現衆院議員・光雄さんの父だ。
それまで山梨に民間テレビ放送局は山梨日日新聞が開設した山梨放送(YBS)1社しかなかった。一方で新聞は、山梨日日新聞(山日)と山梨時事新聞(山時)と2社あり、激しい競争をしていた。1967年の知事選で山日は新人の田辺国男さんを支持、山時は現職の天野久さんを支持した。結局、田辺さんが勝利し、その影響もあり山時の経営が悪くなり、やがて廃刊に追い込まれた。
その後、山時の流れをくむ新聞として山梨新報が創刊され、UTYグループの一員として週刊での発行を行っている。入社後から現在まで、多くの人に「山梨に地元紙が1紙だけというのは好ましくない。山梨新報をなんとか日刊にできないか」と言われ続けている。日刊紙の発行は難しいが、その分、山梨新報、エフエム富士を含むUTYグループが頑張るしかないと考えている。
10年間勤務したNHKを76年に辞めUTYに入社した。入社してすぐに、中山典村専務(当時)から「NHKじゃ報道をやっていたみたいだが、ここに来たらまず営業をやらなければだめだよ」と言われた。以来、一時期を除き基本的にはずっと営業畑を歩んできた。大企業の少ない山梨で広告をとるにはそれなりの苦労はあったが、日本経済が上昇基調にあったこともあり、会社の業績は右肩上がりの成長を続けた。
このころの一番の思い出といえば、「UTYカラオケ大賞」という番組に審査員として出演したことだろう。作曲家の中山大三郎さんらを招き、審査員をしてもらったのだが、放送局代表として私が引っ張り出された。番組は15年間続いたが、スタートからの7年間、審査員を務めた。
7年間も、毎週1時間のレギュラー番組に出演すると、やはり顔が売れる。どこへ行っても「金丸さんだ」と言われるようになった。当時は、中央政界で力をつけ、ほとんど選挙区に帰ってこなくなった父・信に代わり、様々な会合に私が出席するようになっていた。最初は「なんだ、息子けぇ。代議士はこないんけぇ」などとがっかりされたものだが、カラオケの番組に出るようになってからは「ああ金丸さんだ。テレビで見てるよ」と喜ばれるようになった。恥ずかしいのを我慢してテレビに出たかいがあった。