(下)植物襲うオゾンホール
「日焼け止めも塗らずに外出したら、たった5分で肌が真っ赤になる。それほどオゾンの量が少ない」 南極半島の西岸に連なる小島にある、ウクライナのベルナツキー基地。観測隊のソコロフスキー・ロマンさん(32)は、折れ線グラフを前に力説した。 観測棟の壁に掲げられたのは、基地上空のオゾン量の変化を追ったグラフ。昨年1年で最低だった10月初めの130DU(ドブソン・ユニット=オゾン量の単位)を示す点を指さし、「とても危険な状態だ」と語った。 上空にあるオゾン濃度の高い層は、人体に有害な紫外線を吸収する。そのオゾン層を破壊する化学物質の製造と使用を規制するモントリオール議定書が発効して20年たつが、南極上空にオゾンの減った領域が穴のようにぽっかり出現する「オゾンホール」が消滅する兆しは見えない。 気象庁によると、1970年代末に110万平方キロだったオゾンホールの面積は昨年、その24倍に当たる2650万平方キロを記録。年によるばらつきはあるものの、ここ10年以上、南極大陸の1・5〜2倍の大きさで推移している。 豪州では皮膚がんの増加が報告されているが、観測隊しか住まない南極では、生態系への影響が心配されている。注目されるのは、動物のように紫外線を避けて移動できない植物への影響だ。 氷に閉ざされた南極大陸本体と異なり、半島の沿岸域では、花が咲く2種類の植物が見られる。その一つナンキョクコメススキは、強い紫外線を浴びると成長が阻害されることがわかっている。 米アリゾナ州立大学のクリストファー・ルーランド准教授が、ベルナツキー基地の北方50キロにあるアンフェルス島で実施した調査によると、紫外線を88%通すフィルターの下で育てたナンキョクコメススキの成長量は、紫外線を17%しか通さないフィルターの下で育てたものの半分。紫外線にさらされると、葉の成長が抑制されることもわかった。 ただし、南極は大気中に紫外線を吸収するチリやホコリが少なく、もともと強い紫外線が降り注いでいた場所だ。オゾンホールが拡大し、紫外線の量が増えているとはいえ、植物の成長阻害が、ただちに種の絶滅に直結するとは限らない。 国立極地研究所の工藤栄准教授が、昭和基地に近い湖の底に生えているマット状の藻類を調査したところ、藻類は緑の光合成色素を含む5センチ程度の層の上に、約1センチの赤みがかった層を発達させていた。 成分を分析すると、紫外線や強い光を防御する働きがある物質が、高い濃度で含まれていた。藻類は、強い紫外線から身を守る仕組みを発達させていたわけだ。 工藤さんは「赤い層は紫外線の防御には有利だが、光を遮るため、光合成には不利。これまでに植物への深刻な影響は確認されていないが、紫外線の生態系への影響は、長期的監視が必要」と指摘している。 オゾン層破壊物質の多くは、大気中の寿命が長い。例えば、カーエアコンや冷蔵庫の冷媒に多用されたCFC―12は100年。先進国では、すでに全廃されているが、その大気中濃度は過去10年以上、ほとんど減少していない。 世界気象機関(WMO)は2006年、南極のオゾン層の回復は、当初予想より15年遅い65年ごろにずれ込むとの見通しを発表した。オゾン層破壊は、決して過去の問題ではない。 南極での上陸取材の最終日、ベルナツキー基地の北400キロにあるロバート島を訪れた。ナンキョクコメススキの群落に覆われた高台を、ペンギンたちがせわしなく行き交う。遠望する氷山の青白さは、サングラスを外して確かめた。 温暖化や紫外線の強い影響を受ける南極半島。客船のデッキから、遠ざかる南極を眺めながら、ここにしかない独特の生態系が壊れないよう願わずにはいられなかった。(佐藤淳)
(2009年5月7日 読売新聞)
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