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    テレビ

    「真田丸」の秀吉死去…豊臣子飼い大名はなぜ家康に従った

    人事戦略コンサルタント 高城幸司
     NHK大河ドラマ「真田丸」は、豊臣秀吉の無邪気な「明」と怒りの渦巻く「暗」の両面、そして死に向かって壊れていく様までを丁寧に表現した俳優・小日向文世さんの好演が話題を呼んだ。その秀吉が亡くなり、次の天下を狙って徳川家康が動き出す。結果は周知の通りだが、なぜ豊臣恩顧の大名らの多くが家康に従ったのか。「 ツンデレ?NHK『真田丸』三成の処世術 」で石田三成らを通して中間管理職論を執筆した高城さんが、今度は真田丸のリーダー論を語る。

     「真田丸」は、天下統一を実現した太閤・豊臣秀吉が亡くなり、次のリーダーを誰が担うのかを巡って再び世の中が混乱し始めます。そのキーとなるのが、徳川家康と石田三成。双方とも頻繁に宴を開いては、仲間の大名を増やそうとします。

     ただ、2人の思惑は大きく異なります。「ツンデレ?NHK『真田丸』三成の処世術」でも触れたように、三成は豊臣カンパニーの承継のため。家康は自らがカンパニーのトップになるため。その後の結果は史実の通りですが、どうして2人は関ヶ原で対決し、豊臣カンパニーから徳川カンパニーへと替わることになったのでしょうか?

    瓦解した五大老・五奉行体制

    • 秀吉亡き後の天下を狙う徳川家康(右、内野聖陽)と重臣の本多正信(近藤正臣)(NHK提供)
      秀吉亡き後の天下を狙う徳川家康(右、内野聖陽)と重臣の本多正信(近藤正臣)(NHK提供)

     本来であれば、オーナー秀吉の直系の子息である秀頼が継げばいい話ですが、秀吉死去の時点でまだ5歳。すでに禁裏(御所)で元服して、多数の大名たちが秀頼に忠誠を誓約する起請文に血判署名していたものの、あまりに幼少でした。

     太平の世の中になった江戸時代ならば、わずか4歳で第7代将軍となった徳川家継のような例があります。ただ、国内外に数多くの課題を抱え(秀吉は朝鮮出兵「慶長の役」の最中で死去)、組織・体制も盤石でない状態で幼児が代表を担うのは時期尚早です。このため、秀頼が承継するまでの「つなぎ体制」をつくる必要がありました。

     こうしたつなぎ体制は、現代のオーナー系企業でもよく行われることです。私が取材した関西の製造業の会社は、創業オーナーが高齢で退任を余儀なくされたタイミングで、御子息がまだ中学生。少なくとも10年以上はつなぎ体制を取る必要に迫られていました。打開策として、管理系、営業系、製造系の主要役員によるボード会議を設置し、これまでオーナーが行ってきたことを代行する体制を整備しました。現在までこの体制は機能しているようです。

     では、豊臣カンパニーはどうしたのでしょうか?

     秀吉オーナーを支えてきた徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝。この5人=五大老(「真田丸」では(おとな)衆)と、実務面を取り仕切る5人の経営企画メンバー、いわゆる五奉行の10人で会社経営を分業で担うことにしたのです。これは、秀吉が存命中に整えたつなぎ体制でした。ところが、このつなぎ体制は十分に機能せず、空中分解しました。五大老のキーパーソンとなる前田利家が死去し、その嫡男で後継者の前田利長が徳川氏と対立したのです。これをきっかけに内部闘争が起こり、組織は秀頼へのつなぎどころではなくなりました。

     そんな空中分解した組織は分業ではなく、ワントップのリーダーを求めるようになります。

     

    2016年08月20日 10時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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