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世界一早い「ゲド戦記」インタビュー 鈴木敏夫プロデューサーに聞く

鈴木 敏夫(すずき としお)さん


鈴木 敏夫(すずき としお)

 1948年生まれ。慶応大学文学部卒業後、徳間書店に入社。雑誌「月刊アニメージュ」編集長を経て、85年、スタジオジブリ設立に参加。「ハウルの動く城」をはじめ、数々のジブリ作品のプロデューサーを務める


 来年7月公開のスタジオジブリの新作が「ゲド戦記」であることが発表された。アーシュラ・K・ル・グウィン原作の名作ファンタジーが初めて映画化されることや、宮崎駿監督の長男で「三鷹の森ジブリ美術館」前館長の吾朗さんが初監督を務めることで、早くも話題となっている。企画を立ち上げた場所だというスタジオ近くの“秘密の部屋”で鈴木敏夫プロデューサーに聞いた。(依田謙一)

――なぜ今、「ゲド戦記」だったのですか。

鈴木 もともと宮(崎駿)さんが熱心に読んでいた作品です。その影響もあって僕も読んでいて、「風の谷のナウシカ」(1984年)を作る前からずっと映画化したいと思っていました。力や魔法を手に入れて敵と戦うそれまでの冒険活劇やファンタジーと違い、戦う相手が「自分」であるということが衝撃的だった。自己との葛藤を描くという点では、「ゲド戦記」がなければ「スターウォーズ」シリーズもなかったのではないでしょうか。

――当時は映画化を試みなかったのですか。

鈴木 実は一度交渉したのですが、うまくいきませんでした。いろいろなところからオファーがあったようですが、ル・グウィンさんはどれにもOKしなかった。ですから、あの時「ゲド戦記」をやっていたら、「ナウシカ」はなかったかも知れない。それが、3年ほど前、日本語版を翻訳した清水真砂子さんを通じて、ル・グウィンさんがその後、宮崎作品をご覧になり、彼に映画化してほしいと言っているという話が舞い込んできました。僕としては渡りに船でしたが、宮さんは悩んでしまった。

――なぜですか。

鈴木 何しろ「ハウルの動く城」(2004年)の制作で頭がいっぱいだったし、自分が作りたいと思っていた頃からずいぶん時間が経って、「今の自分にできるだろうか」という思いもあった。ただ、僕はやっぱりこの時代に映画化したかった。というのも、清水さんからお話をいただく前、たまたま読み返したら、第3巻が今の時代にぴったりだと思ったんです。希薄になってしまった「現実感」を描けるような気がして。

――「現実感」?

鈴木 世論調査を見れば増税賛成が増えているし、郵政民営化や憲法改正を国民に問うんだという政治がもてはやされるのは、僕にはよく分からない。だってそれは為政者のすることで、結局は自分の首を絞めることにつながる。つまり現実感のある「庶民」がいなくなったということなんだと思う。まぁこれは作品を通して吾朗君が表現していくことともつながっているはずなので、このくらいにしておきますが。

――そもそもなぜ、吾朗さんを監督に抜擢したのですか。

鈴木 前提として、ジブリの今後という問題があります。高畑勲は70歳。宮崎駿もまもなく65歳。2人合わせて135歳。これに僕の歳を足せば200歳に近づいている(笑)。このままいけばジブリは終わりますよ。でも、もともと2人の映画が作りたくて始めた会社ですし、僕もある満足感は得ている。心のどこかで「もういいかな」と思っているところもありますが、やっぱりスタジオに所属する若い人への責任もある。だけど、宮さんは作る方は天才でも、教えるのは決してうまくない。彼を助手席に乗せて運転すればすぐに分かります。横からいちいち口を出すから、大抵の人はノイローゼになってしまう。「魔女の宅急便」(89年)も「ハウル」も、最初は別の人が監督をやる予定だったのが、結局宮さんになってしまったように、映画作りでもそういう光景を何度か見てきた。もちろん宮さんに悪気はないんですよ。でも、実際に十二指腸潰瘍になって来なくなってしまう人もいる(笑)。そこで思いついたのが、吾朗君の存在。彼を間に挟めばうまくいくんじゃないかと。

――でも、アニメーションの制作経験はないわけですよね。

鈴木 それは気になりませんでした。彼がジブリ美術館を宮さんのイメージ図をもとに作った時だって、造園の経験はあっても建築はやったことありませんでしたしね。第一、きちんと観察さえできれば絵は誰でも描けると思っています。これは僕が雑誌「月刊アニメージュ」をやっていた時のことですが、普段絵を描かない編集部員に、編集後記用の自画像を描いてもらったことがあった。皆、最初は無理だと言っていましたが、自分の顔を丁寧に観察し始めたら、ちゃんと最後まで描けた。しかも、一生懸命描いた迫力があった。吾朗君はよく、打ち合わせの最中に似顔絵を描いていたので、観察ができる彼なら絵は描けると思っていました。

――吾朗さんはアニメーションへの関心がずっとあったのですか。

鈴木 僕には分かりません。普通は自分の親父の近くで仕事をするのは嫌なはずですが、どこかで父親の仕事への関心というものはあったのでしょう。彼がジブリ美術館の仕事を引き受けた時、それを感じました。


(C)2006 二馬力・GNDHDDT

――ジブリ美術館の時は、なぜ吾朗さんに白羽の矢を立てたのですか。

鈴木 中学生の頃から彼を知っていましたが、おじいさんの葬儀で久々に会った時、「吾朗です」と声を掛けられた時のことが妙に印象的でした。僕の目をしっかりと見て、視線を放さなかった。美術館の話が持ち上がった際、ふと顔が浮かんだんです。それで宮さんに吾朗君にやってもらうのはどうかと話したら、「鈴木さんが説得をして、本人がやるというなら仕方ない」ということになって、依頼したんです。

――吾朗さんの答えは。

鈴木 二つ返事で了承してくれました。それでいざ仕事してもらったら、ありがたいと思ったことが二つあった。一つは、ジブリ美術館を完成させた上で、運営まで見事にやってのけてくれたこと。もう一つは、宮さんの描くイメージで曖昧な部分があると、断固として受け付けなかったこと。これは非常に頼もしく思えた。そういう自分の考えを実行に移す彼のパワーを見ているうちに、もしかしたら映画の仕事もできるんじゃないかと思っていました。それで「ゲド戦記」の話があった際、「ジブリ美術館のこれからを考えるなら、ジブリのこれからに無関心ではいられないだろう。企画に参加してみないか」と聞いたら、すぐに「美術館と関係があるので」と答えた。それで企画を立ち上げるため、吾朗君らと少人数でこの部屋に集まりました。2003年10月のことです。

――その時点ではまだ「監督」ではなかったんですね。

鈴木 ええ。その後、ある程度企画の内容が固まってきたところで、本格的に準備に入るため、宮さんに「吾朗君にアドバイザーとして関わってもらいたい」と話しました。そうしたら大反対でしたね。スタジオの皆に話した際も、彼が参加することにいろんな意見がありました。やがて誰が絵を描くのかということになり、右往左往しながら、吾朗君に絵コンテを描いてもらうことにしました。

――どう描き始めたのですか。

鈴木 まず最初に言ったのは、見よう見まねでやりなさいということ。親父が描いた絵コンテをそばに置いて、自分がほしいカットがあったら、それを参考にしろと。そしてその作業は、人前で堂々とやりなさいと言いました。また、彼自身もいろいろ考えて、ジブリ美術館でやった「ピクサー展」で得た知識をもとに、カードに絵を描き、それを縮小コピーして張り付けるという方法を編み出した。(次ページへ続く)


2005年12月26日  読売新聞)
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