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さくらももこの世界

まる子の事件簿

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「まる子 浅草へ行く」の巻

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(C)さくらプロダクション コミック文庫ちびまる子ちゃん9巻(集英社)

 日本の下町を代表する「浅草」。毎年100万人を超える人手で賑わう浅草神社の三社祭はあまりにも有名だが、浅草寺を中心にそぞろ歩けば、天ぷら、そば、どじょうなど江戸文化の象徴とも言うべき味処が勢ぞろい。

 ちょっと路地に入ると、スターのブロマイドを売る店など、懐かしい風景にも出会え、いつ訪れてもワクワクさせられる。大人だけでなく、子供にとっても心ときめく浅草に友人と一緒に遊びに行ったまる子ちゃん。初めて目にする雷門のちょうちん、ズラリ並ぶ仲見世の土産物屋に早くも好奇心をそそられてしまったのであった。

 下町情緒が残る浅草であるが、実は、ここは江戸の昔から劇場や見世物小屋などが建ち並んで賑わった一大歓楽街でもあった。その中心となったのが六区と呼ばれる一帯で、大衆演劇場や映画館などが今なお点在している。昭和の初期にはエノケンなど大スターもこの地から誕生。その後、数えきれないほど多くのスターを生みだすことになる。

 浅草六区に到着したまる子ちゃん一行。ストリップ小屋として名高い「フランス座」の前で立ちすくむ友人の野口さんを横目に、「野口さん、ストリップがすきだったんだね」「意外だよな、女なのに」と勘違いしてしまうまる子ちゃんたちだったが、野口さんこそ、ここが若手芸人の登竜門であることを実は熟知していたのであった。

 「ストリップショーの幕間にやるコント…みたいなア。売れっ子になる前のいい若手芸人が時々いるんだ こういう所には」と期待に胸膨らませている矢先、偶然にも現われた無名の芸人。思わず近寄りサインをねだる野口さん。「この人の目の輝きは大物になる気がする」と確信したその無名芸人こそが実は、ビートたけしであった。

〜「多くの芸人を育てたフランス座」〜

 「フランス座」は1953年に開館。常磐座やロック座とともに浅草興行街の全盛期を生んだ場所である。まる子ちゃんたちが出会った、無名時代の頃のビートたけしさんがストリップの間のコントを演じていたことはすでに有名な話し。「たけしさんが、十数年前に修業を積んだストリップ劇場のフランス座は、渥美清、萩本欽一、東八郎さんらコメディアンを輩出した『コントの殿堂』。作家の井上ひさしさんが照明係の傍ら、コントの台本を書いていたのも有名だ。建物の内部、そして周辺の路地もほとんど昔のまま」(1988年6月11日付読売新聞より)

 たけしさんのこうした浅草修業時代を描いた自伝小説が「浅草キッド」である。1988年にテレビ・ドラマ化されるにあたり、たけしさんは制作発表の席上で以下のように述べている。「どこで修業しようと情熱の持ち方ひとつ。浅草の灯が消えてからの芸人だけど、僕は浅草が大好き」。

 しかし、映画や演芸の衰退と共に、浅草から芝居小屋や演芸場が次々と姿を消すにつれ、ビートたけしさん以後、浅草出身の大物は育たなくなってしまった。「このままでは浅草の演芸の灯が消えてしまう」という声が相次ぎ、1999年、フランス座は改装に踏み切ることになった。

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2000年1月1日付読売新聞朝刊より

 

 「芸をする場がなければ、芸人は育たない」という松倉久幸社長(当時)の決意のもと、7月から改装工事にはいった「フランス座」。名称も「浅草フランス座演芸場・東洋館」と改め、客席180の小劇場として生まれ変わることになったが、踊り子の登場に使った舞台わきのらせん階段など、ストリップ時代の面影も一部残されることに。「今後は講談やコントなど大衆演芸向けの劇場としても使い、無名の芸人にも舞台に立ってもらう」と、松倉さんは述べている。

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(C)さくらプロダクション コミック文庫ちびまる子ちゃん9巻(集英社)

 そして、2000年1月1日。「新装なった『浅草フランス座演芸場・東洋館』のこけら落としは落語協会の『正月寄席』でスタート。入れ替えなしの3部制で、5日まで林家木久蔵、三遊亭円歌、橘家円蔵ら人気落語家たちが顔をそろえ、名人芸を披露する〜」(2000年1月1日付読売新聞より)

 多くの芸人を育て、そして愛されてきた浅草。もし、浅草を訪れる機会があるなら、浅草公会堂前にある「スターの広場」に立ち寄ってみてはいかがだろう。ここには、200人以上にも及ぶ浅草ゆかりの役者や歌手、落語家などの手形とサインがプレートになって埋め込まれている。

 まる子ちゃんたちが浅草で、無名の芸人に出会ってから5年。ビートたけしの名は、日本中で知られるようになり、あの時野口さんがもらったサインは誰もが欲しがるようになったのであった。

2005年11月15日  読売新聞)
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