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周りは「海」孤立43時間…被災本紙記者気仙沼避難所ルポ

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津波に追われ、避難所でうずくまって眠る被災者(11日午後10時9分)

 子供の泣き声と老人のうめき声が響き、底冷えする部屋で、じっと身をかがめて誰かの助けを待つしかなかった――。記者は東日本巨大地震で宮城県気仙沼市の避難所を取材中、大津波に襲われ、地元の住民の方々450人とともに、避難所内に閉じこめられた。避難所は3階建て公民館だが、2階天井近くまで浸水し、公民館の周囲では、流出した油に引火した火事が頻発。生きた心地がしない中、2晩を過ごし、43時間後に救出された。東北総局気仙沼通信部・中根圭一(27)、写真も

地震発生

 11日午後2時46分、東日本巨大地震が発生した時は気仙沼市の市街地にある気仙沼通信部にいた。地面から突き上げるような縦揺れの後、激しい横揺れで立っていられない。揺れが収まると、棚からすべてが落ちて足の踏み場もなくなった通信部から、カメラと取材道具を抱えて外に飛び出した。避難所となった市内の気仙沼中央公民館に車で駆け付けた。

 公民館に避難した住民が集まってきていた。2階屋上で住民から話を聞いていた3時30分頃だろうか。「津波が来た」。男性の大声が響いた。振り向くと、気仙沼湾に白波が立っており、民家や水産関連の工場を次々と押し流しながら、津波が迫ってきた。公民館は海岸から約400メートル。一心に写真を撮り続けていると、レンズ越しにみるみる津波が大きくなってきた。



【動画】大津波にのみ込まれる瞬間の気仙沼市街映像あり

 危険を感じ、住民とともに3階屋上まで避難した。避難所は四方が水とがれきに囲まれた。水は2階天井近くまで達し、外には出られない。通信部が入居するアパートも水浸しになったのは間違いない。乗ってきた車も流された。帰る先も、帰るための手段も失った。

 津波が迫る写真をパソコンから会社に送信し、携帯電話でも上司と話したが、その後、だんだんつながらなくなった。自分が「記者」である前に、「被災者」であることに気づいた。もう誰かが助けにくるのを待つしかなかった。

不安の夜

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海上に浮く重油が燃え、一面が火で包まれた気仙沼湾(11日午後6時)

 津波の第1波が過ぎ去った11日午後6時頃、記者を含め、公民館の避難者約450人は、寒さをしのぐため、3階にある物置、調理室、廊下、会議室の4室に分かれて一晩を過ごすことになった。記者は広さ30畳ほどの物置部屋に入った。乾電池式の照明がぼんやり光る中、約100人が明かりを囲むように背中を丸め、ひざには毛布を掛け、身を寄せ合った。寒いから、だけではない。足を伸ばす余裕も、相手と身を離す隙間もないのだ。夕食は備蓄されていたクラッカーと救助ヘリから落とされたビスケットのみ。水はなめるほどしかない。四方を「海」で囲まれ、断続的に襲う津波でいつ建物が倒れるかわからない。

 避難所近くの保育所から避難した親子も多い。子供が「こんなの、もういやだ」と泣き叫んだ。屋上に出ると、周囲の「海面」のあちこちが燃えている。漏れ出した重油に引火したのだ。公民館に燃え移ってもおかしくない距離だったが、SF映画のシーンを見ているようで、目の前で起きていることが現実とは思えなかった。油臭さを充満させた「海面」の火災はなかなか収まらない。何かの拍子で「ボン」という爆音がする。

 この夜は、物置で背中を丸め、足を抱えて座ったまま眠り込んだ。寒さをしのぐのに、防災用にしまってあった硬くて薄い毛布を引っ張り出し、1枚を3、4人で使った。コンクリート製で底冷えする床に敷けるのは余った段ボールの切れ端くらい。大半の被災者には回らず、記者は前日に取材先でもらった資料を尻に敷いて寒さをしのいだ。床の冷たさに耐えきれず、立って眠る人もいた。公民館の職員らが非常食用のクラッカーを配った。1缶を5人ほどで分けると、1人で2枚が限度だった。

 用を足すにも便器ががれきで埋まり、階段で済ませた。余震が多く、1時間に1回ほどは揺れで眠りから覚めてしまう。鉄骨建てとはいえ、決して新しくない公民館は、断続的に襲う余震や津波で倒れないかと不安で仕方がなかった。

救いの手

 携帯電話がつながらなくなると、家族と連絡が取れず、安否を心配する人もいた。記者の不安感を救ってくれたのは、隣で休む女性(56)との会話だった。「どこの出身なの」「あら千葉が生まれなんだあ。また遠いところから来たねえ」「津波が来て連絡が取れないなんて。あんた長男さだったら、親はそりゃえらい心配していると思うよ」。もちろん初対面の人だったが、母親と同じくらいの年齢の女性と話していると、なぜかほっとした。

 「きっと明日になれば、救助ヘリが助けに来てくれるさ」と互いに励まし合った。

 翌12日、日の出とともに起きると、水が1階天井あたりまで引いていた。漂流物がよく見えた。横転した車、倉庫から出た冷凍カツオやサンマ。枝のようなものもあったが、流された人の手のように見えた。思わず目をふさぎ、漂流物をじっくり見つめることができなくなってしまった。

 東京消防庁の救助ヘリコプターが午前9時40分に来た。「これで帰れる」と期待したが、ヘリが着陸できる場所はなく、1人ずつロープでつり上げるしかなかった。午後からは航空自衛隊のヘリも加わったが、50人程度しか運べず、残った約400人は2夜目を過ごすことになった。

 この夜の夕食はビスケット一かけらだけ。ヘリはペットボトル数本の水を落としていったが、記者が受け取った水はなめる程度。それも、脱水症状になりかけていたお年寄りに譲った。

 被災者のストレスはピークに達していた。子供が夜に「のど渇いた」「もう帰りたい」と泣くと、「うるさい」とつぶやく男性もおり、ぴりぴりした雰囲気に。

 「もう限界」。誰もがそう感じた3日目の13日午前6時、外を見ると、水がほとんど引いていた。車はまだ走れる状況ではないが、助かったと思った。公民館前の広場に自衛隊と東京消防庁のヘリが着陸し、3機態勢で救助を始めた。病人や子供、お年寄りを優先し、記者が乗ったのは午前10時頃。気仙沼市内のヘリポートのような場所に降りた。

 ようやく「被災者」から「記者」に戻った。だが、孤立した被災者はまだまだいる。水や食料のないまま過ごす人、屋上で寒さをしのぐ人もいるだろう。諦めずに生還してほしい。復興までには長い道のりが続くだろう。避難所での43時間を胸に、多くの人が大切なものを失った悲しみと、そこから立ち上がっていく力強さを、しっかり伝えていきたい。

2011年3月15日  読売新聞)
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