(8)「六大学で一番の選手になれ」![]() 2年生秋の早大戦、長嶋は9回表2死から決勝の3ランホームランを放ち、ナインに迎えられる。長嶋の六大学初ホームラン(1955年9月10日)
新人で迎えた春の六大学リーグ戦の最初のカードの対東大戦でした。途中からサードで起用されました。初打席は、たしか三振でしたね。 《1954年(昭和29年)4月に開幕した東京六大学野球春のリーグ戦で、立教は東大に勝った後、早稲田に敗れ苦しいスタート。砂押邦信監督は、雰囲気を変えるため新人を大胆に起用。正念場となった5月の対法政2回戦では、杉浦忠を先発のマウンドに送り、1番にセカンド本屋敷錦吾、5番にショート長嶋を先発出場させた。本屋敷は先頭バッターで三振して交代、杉浦は力んで打たれ2回で降板、長嶋は3打数で無安打。エラーでベンチに下がった》 まもなく6月には新人戦があります。合宿所での話題はそのことばかりでした。私も、「ようしそこで挽回(ばんかい)してやる」と練習に励んでいたところに電報が届きました。「チチキトク スグカエレ ハハ」。臼井の実家に駆けつけると、病床の親父(おやじ)は、最後の気力を振り絞って私の手を握り言いました。 「茂雄、つらいだろうががんばれ。父親がいなくなっても立教をやめるな。野球をやるからには、六大学で一番の選手になれ。プロはそれからでもいい。そしてプロへ行ったら、日本一の選手になれ」 それが遺言になりました。 在学中に家を支えるためにプロに転向しようかと考えたこともありました。実際にプロからの誘いもありました。でも母はいつも、「茂雄、父さんが最後になんて言ったか、思い出しなさい」と反対しました。六大学で一番の選手になって、プロで日本一の選手にならなくちゃいけない。それからは、親父の言葉をいつも心に刻んで、励みにしましたね。 親父が私の試合を見たのは、あとにも先にも、高校3年の時に特大ホームランを打った大宮球場での一度だけ。神宮での晴れ姿は見ることなく亡くなりました。6月2日でした。 《それから3日後の6月5日に幕を開けた六大学新人戦の初戦の対早稲田戦で、「3番サード」の長嶋は3打数1安打。さらに翌々日の対法政戦では、二塁打1本を含む5打数3安打と気を吐き、8―3で快勝。その打力が注目される。この年、54年の2月、ヤンキースで活躍した元大リーガーの巧打者、ジョー・ディマジオが、新婚旅行を兼ねて、妻マリリン・モンローと来日、大きな話題を呼んだ》 秋のリーグ戦に向けて練習はますます厳しくなりましたが、野球がおもしろくもなってきた。砂押さんのノックを受けていても、「もういっちょう、さあ来い」とくらいついていきました。こういう性格ですから。明るい前向きな姿勢が、チームの雰囲気を変えていきました。(敬称略) (2006年6月19日  読売新聞)
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