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    三宅一生さん

    初めて語る被爆体験 デザイナー三宅一生の生き方(上)

     デザイナーの三宅一生さん(77)が読売新聞の戦後70年企画の取材に応じ、これまで日本のメディアにほとんど語ってこなかった自らの被爆体験について話しました。広島で育んだデザインへの志、ファッションに対する思いを語り、これからの時代をどう生きるか問いかけています。

     

    • 恩師の長谷川先生と小学校6年生の三宅さん
      恩師の長谷川先生と小学校6年生の三宅さん
    • イサム・ノグチ作「つくる(広島平和大橋)」=イサム・ノグチ撮影(c)2015 The Isamu Noguchi Foundation and GardenMuseum/ARS,New York/JASPAR, Tokyo E1950
      イサム・ノグチ作「つくる(広島平和大橋)」=イサム・ノグチ撮影(c)2015 The Isamu Noguchi Foundation and GardenMuseum/ARS,New York/JASPAR, Tokyo E1950

     原爆の話はしないと決めていました。「ピカドンデザイナー」なんて呼ばれたくなかった。原爆を言い訳にしたら情けないと思ったから。夏には、読売新聞の取材も断りました。でも今、僕みたいな被爆の症状もある人間が話したら、少しは世の中が違ってくるのかもしれない。

    原爆を言い訳にしない

     広島に原爆が投下された70年前の8月6日。小学1年生だった僕は、広島市の隣、府中町に疎開していました。朝礼が終わって教室に入ったら突然、ドーンときた。衝撃で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さって。びっくりしてね。

     母のいる自宅は爆心地から2・3キロ。「うちに行きたい」と疎開先の家の人に言ったら、乾パンをたくさん持たせてくれた。その日のうちに、母を捜しにひとりで市内へと向かいました。人々がおりかさなって焼け、水を求め小川に集まっている。

     母に会えたのは翌日。治療を受けている場所を聞いて、会いに行きました。母は半身にやけどを負っていました。

     「長男なんだから、安全な田舎に行きなさい」。母は私を見るとすぐに、そう言いました。僕を生き残らせるためでしょう。母は、気の強い、しっかりした人でした。近所の人や親戚からも慕われていました。

     被爆の影響で、4年生のときに骨膜炎を発症しました。この病気で亡くなる人もいましたが、ペニシリンのおかげで助かりました。看病してくれた母は、僕の病状が良くなって間もなく、亡くなりました。

     小学生の頃から絵が好きで、5、6年の担任だった長谷川進先生が指導をしてくれました。筆が買えず、指で絵を描いてましたね。デッサンを新聞に投稿したことも。先生は僕がデザイナーになってからも応援し続けてくれました。中学ではバスケットに興味が向きましたが、病気の影響で足が悪くなり始めていました。

     爆心地近くに架けられた平和大橋。県立広島国泰寺高校に進み、通学の電車から見て、絵画教室に通う時には自転車で渡りました。欄干はイサム・ノグチさんのデザインで、独特の世界がある。こんな風にシンプルに表現できるなんてすごい。彼はヒーローでした。

     これがデザインなんだ。自分に才能があるかわからないけど、やってみよう。力をもらいました。

     先輩たちが、イサム・ノグチという人がいることを教えてくれて、デザインの世界への扉を開いてくれた。デザインを学びたい。服飾の学校に行こうか悩んだ末、東京の多摩美術大学に進みました。先輩たちは進路の相談にも乗ってくれたのですが、その後、原爆症で亡くなってしまいました。

     自分も長くは生きられないだろうから、30歳か40歳までにできることをやろう。原爆を言い訳にしない。そう心に決めました。

    (聞き手・読売新聞生活部 小坂佳子、谷本陽子)

    ※12月6日の読売新聞朝刊に掲載された記事を再編集して掲載しています。

     

    プロフィル
    みやけ・いっせい
      1938年、広島県生まれ。多摩美術大卒。70年に三宅デザイン事務所を設立した。93年フランスのレジオン・ドヌール勲章、2010年に文化勲章を受章。デザインの発信拠点「21_21デザインサイト」を運営する財団の理事長を務める。

     

    2015年12月15日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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