文字サイズ
    歴史

    大河ドラマ「真田丸」の舞台はここだ!(1下)…大坂城「真田丸」

    城郭ライター・萩原 さちこ

     来年のNHK大河ドラマの舞台として登場するであろう真田氏の城。今回は、ドラマタイトルともなった「真田丸」の構造や特徴、影響を及ぼしたとされる武田氏の城との類似性、真田信繁の没後に真田氏の新たな居城となった「松代城」を、引き続き、萩原さちこさんに解説していただこう。

    大坂城最前線の砦「真田丸」とはなにか

    • 丘陵に築かれた真田丸の名残と言われる心眼寺前の坂。山門の入り口に「真田幸村 出丸城跡」という石碑が立っている(大阪市天王寺区で。2014年5月ごろ、読売新聞撮影)
      丘陵に築かれた真田丸の名残と言われる心眼寺前の坂。山門の入り口に「真田幸村 出丸城跡」という石碑が立っている(大阪市天王寺区で。2014年5月ごろ、読売新聞撮影)

     真田信繁(幸村)がその名を(とどろ)かせたのが、真田丸の戦いです。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣において、信繁は自らが設計したとみられる真田丸に陣を置き、徳川軍を迎撃。圧倒的に兵力で劣りながらも、徳川軍に大打撃を与え見事に退けたといわれます。信繁の奮闘ぶりは、劣勢続きだった豊臣軍をおおいに励ましたとか。大坂冬の陣における徳川方の損害の8割が真田丸での死傷者というのですから、その威力はすさまじいものだったといえましょう。

     真田丸とは、大坂城に増築されたいわば(とりで)のようなものです。実態は不明点が多くはっきりとはわかっていませんが、大坂城南側の出入り口(平野口)が突破されるのを防ぐため、平野口の前面に突出するように構築された半円形の防御拠点です。両側に出入り口を置き、土塁と呼ばれる土の壁と柵により敵の攻撃を阻止。外側は半円形の空堀で囲み、その前面には方形の水堀が設けられていたとされます。大坂城の防衛ラインから突き出した最前線基地といえる戦闘空間で、半円形のため放射状の攻撃が可能というわけです。

    • 現在の大阪城と背後に広がる市街地。大坂の陣の舞台となった大坂城は豊臣氏滅亡後にすべて埋め立てられ、徳川幕府によって現在の大阪城が新たに築かれた。(2015年4月26日、読売新聞ヘリから撮影)
      現在の大阪城と背後に広がる市街地。大坂の陣の舞台となった大坂城は豊臣氏滅亡後にすべて埋め立てられ、徳川幕府によって現在の大阪城が新たに築かれた。(2015年4月26日、読売新聞ヘリから撮影)

     難攻不落を誇った豊臣秀吉の大坂城は、総構(そうがまえ)と呼ばれる強靭(きょうじん)な防衛線によって囲まれていました。大坂城は上町(うえまち)台地の北端に築かれ、北は大和川と淀川、西は上町台地の断層と横堀川、東は平野川や猫間川といった自然地形に守られています。そのため、敵の突破口となるのは台地続きの南側からとなります。南側が唯一の弱点ということです。徳川軍の主攻撃面となるこの場所に、信繁は懇願して真田丸を構築したといわれます。出撃策を主張したものの豊臣方が籠城策を選択したため、弱点を克服すべく講じた策だったようです。

     前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎ら錚々(そうそう)たる武将たちが真田丸を攻撃するも、二重の柵に阻まれなかなか突破できませんでした。そこへ、真田軍は真田丸から集中砲火を浴びせ、かろうじて塀をよじ登ってきた兵に対しても、塀に無数に設けた矢狭間(やざま)や鉄砲狭間から矢や弾丸の雨を降らせました。徳川軍は数千といわれるほどの犠牲者を出し、ついに真田丸を落とすことはできませんでした。

     

     

    2015年12月10日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    PR
    今週のPICK UP
    PR
    今週のPICK UP