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    歴史

    大河ドラマ「真田丸」の舞台(5)… 天下人・秀吉の大坂城

    城郭ライター・萩原さちこ
     天を突くような大坂城の威容に思わず息をのむ真田信繁――。NHK大河ドラマ「真田丸」は、豊臣秀吉や石田三成、茶々(淀殿)らの人間模様が繰り広げられる大坂編に入った。その主たる舞台の「大坂城」、今見上げる城と違うことをご存じだろうか。「 上田城 」「 真田丸 」「 武田氏を翻弄した3つの城(新府城、岩櫃城、岩殿城) 」「 真田昌幸が死守した因縁の沼田城 」「 上杉謙信・景勝の春日山城 」に続き、その歴史と魅力を萩原さちこさんが解説する。
    ※豊臣・徳川時代は「大坂」「大坂城」、現代は「大阪」「大阪城」と記述

    地下に眠る太閤・秀吉の城

    • 大阪城天守閣。秀吉が築いた天守は現在の天守台より北東(貯水池東北端)にあった(写真は萩原さちこ撮影、以下同じ)
      大阪城天守閣。秀吉が築いた天守は現在の天守台より北東(貯水池東北端)にあった(写真は萩原さちこ撮影、以下同じ)

     大河ドラマ「真田丸」の舞台が大坂に移り、豊臣秀吉の居城・大坂城がたびたび登場しています。さすがは天下人の城と目を奪われる、絢爛(けんらん)豪華な天守や御殿。真田信繁が圧倒される様子、(通常は京都へ上ることだが、ここでは大坂へ)上洛した父・昌幸や兄・信幸が城を通じて秀吉の権力を思い知る様子も描かれていました。

     大阪城は“太閤さんの城”として親しまれる大阪のシンボルです。ところが、実は私たちが目にしている現在の大阪城は、秀吉が築いた城ではありません。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川秀忠の命により改築された徳川の城です。改築といっても建物を建て替えるような生易しいリフォームではなく、秀吉の大坂城を1~10メートル以上埋め立て、その上に築いたまったく別の城。天守だけでなく、石垣も水堀も、もちろん現存する(やぐら)もすべて徳川によるもので、秀吉時代の大坂城は完全に地下に埋没しています。

    • 南外堀と現存する六番櫓。豊臣家滅亡後、徳川によって築かれた。かつては石垣の上にずらりと櫓が建ち並んでいた
      南外堀と現存する六番櫓。豊臣家滅亡後、徳川によって築かれた。かつては石垣の上にずらりと櫓が建ち並んでいた

     秀吉時代の大坂城は広大で、特別史跡に指定されている現在の大阪城のおおよそ7倍にも及びます。現在の大阪城公園は本丸と二の丸だけですが、その外側に三の丸と総構(そうがまえ)という曲輪(くるわ)がありました。

     規格外のその姿は、17世紀にオランダで出版されたモンタヌスの『日本誌』で“七不思議に次ぐ世界8番目の不思議”と記されているほど。大坂城を訪れた大友宗麟や毛利輝元はその荘厳さに恐れおののき、秀吉に屈服したといわれます。まさに、三国無双の名城だったようです。数々の城攻めを経験してきた秀吉は、いわば城づくりの名プロデューサー。豊富な実戦経験、最高峰の技術者集団、権力と財力をフル活用することで、他の誰にも築けない最強の城をつくれました。

    信長の都市構想を受け継いだ城

    • 二の丸の修道館にある石山本願寺跡の案内板。信長は1570年(元亀元年)から本願寺を攻め続け、攻略後は丹羽長秀に預けた
      二の丸の修道館にある石山本願寺跡の案内板。信長は1570年(元亀元年)から本願寺を攻め続け、攻略後は丹羽長秀に預けた

     大河ドラマで時おり登場する天守は、現在の大阪城天守閣とは異なり、壁面が真っ黒です。秀吉が築いた天守は一重目から最上階まですべての壁面に黒漆が塗られ、屋根には金箔(きんぱく)瓦が()かれた荘厳なものだったとされています。主君・織田信長が1576年(天正4年)に築いた安土城で具現化した、“城で威光を示し屈服させる”という概念を受け継いだ、示威的な効果を狙った天守でした。

     大坂城がある場所は、信長が苦心して手に入れた石山本願寺の跡地です。石山本願寺は寺とはいえ城塞化され、上町台地の突端に位置する攻めにくい地形にありました。淀川や元の大和川などが海に注ぐ河口に近く、海路へ出るための交通の要衝として古墳時代から栄えた地で、水路網が防壁となって食糧や弾薬の補給を受けられたのです。戦いに適した要害の地で大量の武器を持った一向宗徒の結束力はすさまじく、信長は攻略に10年以上もかかっています。立地のよさは誰もが認めるところでしょう。

    • 山里丸南東にある豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地の石碑。実際には、秀頼らの最期の場所はわかっていない
      山里丸南東にある豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地の石碑。実際には、秀頼らの最期の場所はわかっていない
    • 豊臣秀吉像(読売新聞撮影)
      豊臣秀吉像(読売新聞撮影)

     また、この地は物資輸送の大動脈だった瀬戸内海航路の終着点でもありました。城の周辺には城下町の発展に適した大阪平野が広がり、城を中心とした大商業都市をつくるにはうってつけの好立地です。信長は天下統一の暁には大坂城を築き、大商業都市を構築して国家の中心地にしようと考えていたようです。秀吉は信長の構想を受け継ぎ、恵まれた立地に持てるすべてを投じて大坂城を築いたのです。信長が横死しなければ、また豊臣家が滅亡しなければ、現在の日本の首都は大阪だったかもしれません。

     秀吉は大坂城の出来映えにご満悦で、「絶対に落とせない」と豪語していたといいます。しかし攻略法を尋ねた徳川家康に「力ずくで攻めてから和睦を結んで堀を埋め、その後大軍で一気に攻めれば簡単に落とせる」と上機嫌で答えてしまったという逸話があります。皮肉にも、このひと言が豊臣家滅亡の引き金に。秀吉の没後、家康は秀吉に伝授された通りにそれを実践し、大坂冬の陣で一旦、和睦を結ぶと、外堀を埋めるふりをして二の丸の内堀まで徹底的に埋め立ててしまいました。堀のない城など、裸同然で抵抗力は皆無。籠城の選択肢を失った豊臣方は討って出るしかなくなり、家康は大坂夏の陣でなんなくとどめを刺し大坂城を落としたといわれます。

    【関連サイト】

    大阪城歴史絵巻「波乱万城」石山本願寺の時代

     

     

    2016年05月23日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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