文字サイズ
    歴史

    大河ドラマ「真田丸」の舞台(6上)…名胡桃城事件と北条攻め

    城郭ライター・萩原さちこ
     NHK大河ドラマ「真田丸」は、沼田城を巡る攻防からいよいよ北条滅亡に向けてのシナリオが動き出した。北条氏はなぜ、本拠地である小田原城(神奈川県小田原市)まで攻め込まれることになったのか。数々の支城(本拠地の城を守る城)はなぜ陥落していったのか。「 上田城 」「 真田丸 」「 武田氏を翻弄した3つの城(新府城、岩櫃城、岩殿城) 」「 真田昌幸が死守した因縁の沼田城 」「 上杉謙信・景勝の春日山城 」「 天下人・秀吉の大坂城 」に続き、萩原さんが解説する。

    名胡桃城事件から北条氏討伐へ

    • 名胡桃城。武田勝頼の命により昌幸が攻略すると、真田・北条の間で攻防が続いた。惣無事令に反した猪俣邦憲による名胡桃城事件が小田原攻めの火種となる(群馬県みなかみ町観光協会提供)
      名胡桃城。武田勝頼の命により昌幸が攻略すると、真田・北条の間で攻防が続いた。惣無事令に反した猪俣邦憲による名胡桃城事件が小田原攻めの火種となる(群馬県みなかみ町観光協会提供)
    • 名胡桃城縄張り図(みなかみ町観光協会提供)
      名胡桃城縄張り図(みなかみ町観光協会提供)

     「このままでは国中を巻き込む大戦となる。沼田は諦めてほしい」と頭を下げる石田三成に、呆然(ぼうぜん)とする真田信繁と父・昌幸――。豊臣秀吉の手に委ねられた“沼田裁定”の結果、真田氏はついに死守してきた沼田城(群馬県沼田市)を手放します。

     「大河ドラマ『真田丸』の舞台(3)…真田昌幸が死守した因縁の沼田城」で述べた通り、沼田城は上州支配の中心地としての立地に加え、真田氏が命懸けで奪い、守り抜いてきた特別な城でした。昌幸の叔父・矢沢頼綱が我が身を柱に縛り付けてまで手放すまいとするドラマの一シーンからも、改めてそれがうかがえたでしょう。

     しかし、もはや秀吉の命には逆らえない時代でした。足掛け7年にわたり決着がつかずにいた沼田領の領有問題は、沼田城を含む3分の2を北条領、名胡桃(なぐるみ)城を含む残り3分の1を真田領とする秀吉の裁定により、ようやく収束したのです。

     ところが、北条家家臣の沼田城代・猪俣邦憲(くにのり)が突如、名胡桃城に攻め込んだことで事態は一変。これに、秀吉は激怒します。北条を攻めて城を奪い返そうと息巻く昌幸を、信繁が「勝手に動けば真田も処罰を受けます」と説き伏せていたでしょう。4年前の1585年(天正13年)に、大名同士の領土紛争を禁じる私戦禁止令「惣無事令」が秀吉により公布されていたためです。

     沼田裁定を踏みにじり惣無事令に違反した上に、北条氏政は猪俣邦憲の首を差し出せという秀吉の命令を拒否。北条攻めの口実ができた秀吉は、ついに北条氏討伐に動き出しました。1590年(天正18年)の小田原攻め(小田原征伐)です。

     秀吉の小田原攻めには、上杉景勝、徳川家康、真田昌幸に加え、中国・四国・九州の大名も呼び集められました。その数は21万とも22万ともいわれます。桁外れの大軍勢による、“天下人の城攻め”でした。氏政が到着を待ちわびていた反・秀吉派の伊達政宗も、ついに秀吉に臣従。北条氏政・氏直父子は孤立し、秀吉の大軍に完全包囲され滅亡の時を迎えます。

    【関連サイト】

    「名胡桃城址」(群馬県みなかみ町観光協会)

    「名胡桃城址」(WEB群馬)

    2016年06月13日 11時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    PR
    今週のPICK UP
    PR
    今週のPICK UP

    山へ行こう♪

    初心者も、ベテランも 準備はしっかりと