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    歴史

    大河ドラマ「真田丸」の舞台(8)…「秀吉の野望」名護屋城と倭城

    城郭ライター・萩原さちこ
     NHK大河ドラマ「真田丸」では、豊臣秀吉が愛息・鶴松の死後、海を越えて大陸進出をもくろむ。秀吉の野望を担って築かれた城は、九州と朝鮮半島にその跡を今も残す。 「上田城」 「真田丸」 「新府城、岩櫃城、岩殿城」 「沼田城」 「春日山城」 「大坂城」 「名胡桃城事件と北条攻め」 「“のぼうの城”と石垣山一夜城」 「小田原城」 に続き、萩原さんが解説する。

    秀吉の新たな野望「唐入り」

    • 名護屋城。朝鮮出兵の軍事拠点として築かれ、7年間の大陸侵攻の拠点となった(萩原さちこ撮影、以下同じ)
      名護屋城。朝鮮出兵の軍事拠点として築かれ、7年間の大陸侵攻の拠点となった(萩原さちこ撮影、以下同じ)

     「わしは大王になるぞ」。天下統一を果たした豊臣秀吉は、海を渡り明国を征服すると言い出します。世に言う「唐入り」(朝鮮出兵)、文禄・慶長の(えき)の始まりです。秀吉の構想は壮大なもので、明のみならず台湾やフィリピンなどを取り込み、さらにはインド、南蛮への進出も視野に入れた“東南アジア一大帝国”を夢想していたともいわれます。

     1591年(天正19年)に李氏朝鮮との交渉が決裂すると、秀吉は明征服の足がかりとして大陸への出兵を決意。秀吉軍の軍事拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の築城を命じ、全国の諸大名を集めて出兵の準備を始めます。大河ドラマでは、名護屋城に参陣した真田昌幸と信幸が久しぶりに信繁と再会を果たすようすが描かれていました。そして、名護屋城から秀吉軍は朝鮮半島に向け出兵します。1592~93年(文禄元~2年)の出兵は文禄の役、1597~98年(慶長2~3年)の出兵は慶長の役と呼ばれ、足かけ7年にわたる大戦が朝鮮半島で繰り広げられました。

    • 名護屋城の天守台。晴れた日には壱岐まで遠望できる
      名護屋城の天守台。晴れた日には壱岐まで遠望できる

     1592年3月、秀吉軍は約16万の大軍を率いて朝鮮半島へ侵攻を開始します(文禄の役)。遠征軍、後方部隊すべてを合わせると、総勢30万という国を挙げての動員だったともいわれます。当初は秀吉軍の快進撃が続きましたが、徐々に暗転し休戦。秀吉は1596年(文禄5年)に明朝の使者を大坂城に迎えたものの、講和内容に激怒し再び出兵を命令します。こうして、1597年2月から2度目の朝鮮出兵へ突入しました(慶長の役)。大苦戦となった慶長の役は、やがて1598年8月の秀吉の死をもってようやく終結し、秀吉軍は命からがら退却したのでした。2度にわたる朝鮮出兵は、諸大名の経済力や軍事力に大きな負担を与え、豊臣政権の終焉(しゅうえん)を早めたといわれています。

     秀吉が築いた名護屋城はどんな城だったのでしょうか。また、秀吉軍は朝鮮半島にどのような城を築いて戦ったのでしょうか。その姿に迫っていきましよう。

     

     

    2016年07月04日 11時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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