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    芸能

    小津安二郎監督「最後のゆかりの地」で小さな映画祭

    読売新聞調査研究本部主任研究員 福永聖二
     小津安二郎は、日本が世界に誇る映画監督だ。東京の下町生まれの小津が、代表作「東京物語」(1953年)や「お茶漬の味」(52年)などの脚本執筆を神奈川・湘南海岸にある旅館の一室で進めたというエピソードは、映画ファンの間でよく知られている。では、その小津が晩年になって仕事場を長野・蓼科高原に移したことをご存じだろうか? 読売新聞調査研究本部の福永聖二主任研究員が、小津にとって「最後のゆかりの地」となった蓼科高原を訪ね、巨匠の素顔と映画への情熱に改めて迫った。

    脚本完成すると、並んだ空の一升瓶100本

    • 蓼科高原をこよなく愛した小津安二郎監督(1963年2月13日撮影)
      蓼科高原をこよなく愛した小津安二郎監督(1963年2月13日撮影)

     小津安二郎(1903~63年)は、長野県の蓼科高原をこよなく愛した。「晩春」(49年)以降の小津作品の脚本は、小津より10歳年長の脚本家・野田高梧(こうご)(1893~1968年)と共同で書かれたが、特に「東京暮色」(57年)から没するまでの7作はすべて、蓼科高原にある野田の別荘「雲呼荘(うんこそう)」に2人でこもって脚本作りが行われた。

     小津が雲呼荘を初めて訪れたのは、「東京物語」公開翌年の54年のこと。「水がうまい。酒がうまい。空気がうまい」とすっかり気に入ったという。以来、毎年この地を訪問し、野田と酒を飲んでは語り合い、時には散歩しながら映画の構想を練った。1作の脚本が完成すると、小津が愛した地元の名酒「ダイヤ菊」の空の一升瓶が100本並んだというのは有名な話だ。

    • 小津や野田らが蓼科滞在中に記した「蓼科日記」や、映画で使われたシナリオなどを所蔵している「新・雲呼荘」
      小津や野田らが蓼科滞在中に記した「蓼科日記」や、映画で使われたシナリオなどを所蔵している「新・雲呼荘」

     雲呼荘はすでに取り壊されて残っていない。だが、小津作品の脚本など貴重な資料を保存・公開する「野田高梧記念蓼科シナリオ研究所」が2016年にオープンした。研究所の建物は、野田の妻のために建てられた山荘を改装したもので、「新・雲呼荘」と名づけられ、当時の様子をしのぶことができる。

     また、蓼科の中心地には、小津の別荘である「無藝荘(むげいそう)」も03年に移築され、蓼科観光協会が保存・管理している。製糸業で財を成した素封家が別荘に使用していた地元の旧家を小津が1956年に借り受けて「無藝荘」と名づけたものだ。

    • 小津の別荘「無藝荘」は観光協会が管理しており、中に入ることもできる
      小津の別荘「無藝荘」は観光協会が管理しており、中に入ることもできる

     そうした小津ゆかりの蓼科高原がある長野県茅野市で「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」が毎年9月に開かれている。スタートは1998年で、今年でちょうど20回目となった。

     今年の映画祭は節目の年にふさわしく、ゲストに「秋日和」(60年)や「小早川家の秋」(61年)に出演した司葉子さんや「秋刀魚の味」(62年)主演の岩下志麻さん、「東京暮色」(57年)、「お早よう」(59年)などの小津作品を手がけたプロデューサーの山内静夫さんらを迎えて、小津作品の上映のみならず、記念セレモニーやトークショーなどのイベントが華やかに行われた。蓼科高原で語られる巨匠のエピソードは、非常に興味深いものだった。

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    2017年10月25日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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