不妊治療(1)
どこも悪くないんです
調べごとをしたり、人に会ったりするのもまた、僕の仕事である。「もうすぐ」という作品を書いてからというもの、月に何度かの取材が欠かせなくなった。小説のテーマや領域が広がったからだろう。自分が体験していないことは、誰かに聞くしかない。今回のテーマは「不妊治療」。僕たち夫婦は体験として、まったくの無知であるため、やはり他者を頼った。ありとあらゆる方にお願いし、言葉を、声を、聞きにいった。
疲れた。僕はとても疲れた。
取材相手が関東周辺ばかりではなかったので、北は盛岡から、南は和歌山まで、何度も往復した。時には半日近くバスに乗らなければいけなかった。そうして出かけていっても、直前になって取材を断られることが何回かあった。話を聞いたあと、やっぱり文章にはしないで欲しいと言われたこともあった。
小説を執筆していたときも感じていたことだけれど、不妊治療というのは、出産を巡る状況の中でも、いささか趣を異にするように思う。そもそも言葉としておかしいのではないか。治療という言葉がどうしても引っかかる。
神奈川に住むSさんの場合は、特にそうだった。
「どこも悪くないんです」
彼女は言った。
「ちゃんと検査を受けました」
僕は頷いた。そして黙った。僕が語りすぎてしまうと、心の底に手が届かないことがある。取材を受けてくれた人たちは、僕と向き合いながら、実は自分の心を覗き込んでいるのかもしれない。やがて彼女は語り出した。詳しい単語がたくさん出てきた。排卵障害、内膜異常、子宮頸管異常、精子濃度、運動率、形態異常――。話している内容で、ご主人が検査を受けたことがわかった。
「ご主人の検査結果はどうでしたか」
「問題なしでした」
彼女の言葉に、僕は一瞬、戸惑ったように思う。そう記憶している。このことは、あとで記そう。
Sさんと僕は、会話を続けた。
「なのに、できないんですね。もう治療は受けているんですか」
「ええ」
彼女がなにを話してくれたのか、この先は書かないと約束したので、切り上げなければいけない。経緯も記すわけにはいかない。
ひとつだけ事実を告げておこう。
Sさんはまだ、子供を授かっていない。彼女に話を聞いたのは、実のところ、3年前なのだ。僕が「もうすぐ」という小説に取りかかっていたころだった。今回の文章を書くにあたり、改めてインタビュー時の録音を聞き直し、Sさんに連絡を取った。本来なら、別の人を取材したかったのだけれど、なかなか見つからなくて困っていたのだ。
Sさんは、前回と同じ条件で、書くことを許してくれた。
おそるおそる僕は尋ねた。
「現状を書いてもいいですか」
しばらく沈黙が続いた。
「どうぞ」
初めて連絡を取ったとき、彼女は37歳だった。今年、40歳になるはずだ。
「問題なしでした」
自分がなぜ、その言葉に戸惑ったのか。当時はよくわからなかった。
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