 フォトニュース
|
|
|
|
|
 |

|
記録的な水不足のため、バケツを持って給水車に群がる主婦たち(1964年7月、東京都目黒区で)
|
 |
水の確保も深刻でした。東京の区部は多摩川や江戸川で水需要を賄っていましたが、戦後、人口が爆発的に増えるとそれでは対応できなくなります。慢性的な水不足で、夏になると高台の住宅地に自衛隊の給水車が出動、都民がバケツで水をもらう光景は、「東京砂漠」と揶揄(やゆ)されました。
このため、利根川の水を引っ張ってくる計画が浮上し、東京五輪を機に、この計画を前倒しして実施することになりました。
《1961年(昭和36年)、水資源開発公団が発足し、翌年、利根川水系の水資源開発基本計画が策定された。これにより、利根川上流に矢木沢(群馬)、下久保(群馬・埼玉県境)の二つのダムを建設し、利根川の水を荒川に引き込み、東京・多摩地域の東村山浄水場を通じて供給する事業がスタートした》
しかし、基本計画の事業の完成は70年で、それだとオリンピックは終わってしまう。そのため、62年に建設大臣になった河野一郎さんの「それじゃだめだ。何としてもオリンピックに間に合わせろ」という鶴の一声で、利根川と荒川を結ぶ人工水路をつくって、利根川から水を取ることになりました。ダムの完成を待たずに取水を始めようというわけで、いまから思えば、随分乱暴な話でした。
都が取水すると、水利権をもつ埼玉県の農家は農業用水を奪われ、大きな影響が出ます。そこで、私自身も協力要請のため、地元の水利組合や地主のもとに何度も足を運びましたが、当然のことながら、話し合いは難航しました。
一方、人工水路の建設は公団の仕事でしたが、工事が予定通り進まないため、ズック製の大きなホースで二つの川をつなぐという、漫画のような計画が真剣に検討されたほどです。
《64年は8月20日まで約100日間、雨が降らず、給水制限は50%に達した。このため、河野建設相は、9月に設定した人工水路の完成予定を8月25日に繰り上げた》
全力を挙げても、人工水路は間に合いませんでした。利根川の水の取水計画は宙に浮き、私は栗原浩・埼玉県知事を訪ねて事情を説明しました。栗原さんは非常にものの分かった方で、都の立場を理解すると、「そういう事情なら仕方ない」と、荒川からの取水を了承してくれました。
こうして1日60万トンの水を確保しましたが、実際は荒川の水をくみ上げたわけです。利根川の水がきたのは65年になってからで、矢木沢ダムの完成は67年、下久保ダムは68年でしたが、オリンピックによって現在の東京の水源開発の基礎が築かれたと言えます。
(2004.3.11)