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    スクールデイズ

    自国の文化への目覚め…林家三平さん

    聞き手・広中正則

    落語家

    • 繁田統央撮影
      繁田統央撮影

     4人きょうだいの末っ子で、地元の東京都台東区立の小学校に入学したころは、「ここにいなさい」と言われると、ずっと動かずにいるようなおとなしい子どもでした。

     父(初代林家三平さん)は、僕のことを「目に入れても痛くない」と言っていたそうです。授業参観日には、必ず学校を訪れていました。

     父は、先生にお願いして教室で小咄こばなしをしたこともありました。教壇に立って「隣の空き地に囲いができたってね。へー」と話すと、教室の皆が大喝采でした。

     放課後には、僕を迎えに来て、寄席に連れて行ってくれることもありました。高座に上がった父を見ながら、客席からわき起こる拍手に「すごいことをしているんだな」と感じたものです。

     父は、僕が小学4年生の時、54歳で亡くなりました。大黒柱を失った一家を、母が切り盛りして、2人の姉は芸能活動に力を入れ、父の弟子だった兄(林家正蔵さん)は落語家の道を歩み続けました。

     僕は、寂しそうなそぶりを見せないようにしていましたが、小学5年生の音楽の授業で、少年が亡き父親を思い出す歌「小さな木の実」を合唱した時、一度だけ泣いてしまいました。級友たちが「大丈夫だよ」と慰めてくれてうれしかった。悲観ばかりせず、自分なりに頑張ろうと思えたのはそれからです。

     家族から落語家になるように言われたことはなく、中学、高校時代は、バンドを組んでテナー・サックスを始めたり、文化祭の実行委員長を務めたりと、いつも何かに挑戦しようとしていました。将来は国際的な証券マンになりたいと、中央大学の経済学部に進学しました。

     大学1年生の夏、欧州で一人旅をした時、スペインの食堂で様々な国の人と出会いました。その場で互いの「お国自慢」をしたのですが、僕が言えたのは「富士山」ぐらい。その席にいた人たちに「もっと自国の文化なども知らなければ」と指摘され、ショックを受けました。

     帰国後、自分の身近に落語があることに気付きました。この道を究めたいと、大学を辞めて修業を始めました。僕にとって、そのときが落語家になるタイミングだったと感じます。今は、チャンスを逃さなくてよかったと思っています。(聞き手・広中正則)

    プロフィル
    はやしや・さんぺい
     1970年、東京生まれ。89年、林家こん平さんに入門。林家いっ平を名乗り、2002年、真打ち昇進。09年に二代目三平を襲名。今年5月、人気演芸番組「笑点」(日本テレビ系)の看板コーナー「大喜利」の新メンバーに選ばれた。
    2016年07月11日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun