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    自分がもし本屋を開いたら――。本好きな著名人が登場し、書店主になりきります。

    9月の店主は芦沢央さんです

    五感に訴える本たち

     いらっしゃいませ。ああ、大丈夫ですよ。電気はついていませんが、営業中でございます。さあさあどうぞ、そのまま目の前の階段を降り、引き戸を右にずらして中にお入りくださいませ。

     暗すぎる? ええ、ですが不思議と歩くのに支障はないのではないでしょうか。さあ、なぜかは店主である私にもわかりかねますが、これまで店内で転倒された方にはお目にかかったことがないのです。

     他のお客様もいらっしゃいませんから、ぶつかることもございませんでしょう。どうぞごゆるりとお過ごしください。

     暗闇に慣れてきた気がする? そうでしょう、そうでしょう。でも、やはり暗すぎて書名や著者名が読めない? なるほど、ですがそれが何か問題でしょうか。

     では、試しに一冊、手に取ってみてください。

     ああ、驚かれましたか。――苦い? いえ、空気は問題ありませんよ。でも、なるほど、苦い、ですか。

     以前、そちらの本を手に取られた方は薄紫と黒が見えるとおっしゃっていました。夜が明ける直前の空に墨汁を垂らしたように見える、と。聴覚検査の際の甲高い電子音が断続的に聞こえるという方もいらっしゃいましたね。

     当店では、フィクション、ノンフィクションにかかわらず、様々な感覚に訴えかけてくる本たちを取りそろえております。ただし、たとえば料理の描写が秀逸な作品だからと言って、味を感じるとは限らないのが面白いところ。滑らかな手触りを感じるという方も、雨上がりの土の匂いがしたという方もいらっしゃいます。

     いえ、比喩ではなく、本当に五感で知覚するはずです。先ほどお客様が本当に「苦い」と感じて空気がおかしいのではないかと思われたように。

     ですので、ゆっくりと本の世界に浸っていただけるよう、カウチソファやお水、ブランケットはご用意しておりますが、味や香りのする飲食物はお出ししておりません。店内を暗くしているのもそのためでございます。

     はい、地下ですからね。昼間でもこの暗さが保たれております。夜間も営業しておりますよ。お仕事帰りでも、眠れない夜でも、どうぞお気軽にお越しくださいませ。

     あしざわ・よう 1984年生まれ。2012年『罪の余白』で第3回野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。著書に『ばくの耳たぶ』など。最新刊は『バック・ステージ』(KADOKAWA)。

    店主の1冊

    ●『美しい距離』(山崎ナオコーラ著、文芸春秋、1350円)死にゆく妻とその周りの出来事を、優しく冷静で切実な視点で見守る夫。丁寧に濾過ろかされたような細やかな言葉は、それでも読み手に踏み入らせる柔らかさを持っている。

    ●『停電の夜に』(ジュンパ・ラヒリ著、新潮文庫、590円)近しい人との間に存在する亀裂を描く9編。熟成された秘密とうその、息が詰まるほど濃密な匂いは、甘いのか苦いのか。

    ●『アウシュヴィッツの図書係』(アントニオ・G・イトゥルベ著、集英社、2200円)本はどんな靴より遠くへ連れていってくれる――収容所の秘密の図書館で本を隠し続けた少女。

    ●『今夜、すべてのバーで』(中島らも著、講談社文庫、560円)驚くのに懐かしい、寂しいのに笑ってしまう――この酩酊めいてい感にも似た奇妙な感覚は名前をつけないまま味わいたい。

    ●『赤へ』(井上荒野著、祥伝社、1400円)武術の達人が指で急所を突くような言葉が持つのは本書のテーマである死に似た静かな獰猛どうもうさ。足音もなく、気づけば組み伏せられている。

     丸善丸の内本店(JR東京駅前)の3階で、近日中に芦沢央さんの「空想書店」コーナーが登場します。

    2017年09月20日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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