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    本にまつわるさまざまな話題を特集します。

    『どうで死ぬ身の一踊り』2006年 西村賢太さん

    「或る熱情」こめて書く

     二十歳になる直前に、田中英光の私小説と出逢であった。それまで推理小説ばかりを読み、何がいたいのかサッパリわからぬ、いわゆる“純文学作品”は読みかけて投げだすことを繰り返していた私は、この人の私小説に度肝を抜かれた。

     極端に改行が少ない上に、やたらと読点を用いる文章のヘタさにまず驚き、そして滅法めっぽうに面白く、余りにも共感できるその内容に衝撃を受けたのだ。

     こんなのでも純文学であっていいのか、と思い、これこそが小説における本当の意味での名文なのだ、ともうひらかれた。

     以降の私は寝ても英光、覚めても英光の状態になり、日雇いの港湾労働時にも、作業ズボンの尻ポケットには絶えずこの作家の著作があった。傷んでもかまわぬよう、全集から作品ごとにコピーして折りたたみ、昼休みには岸壁の隅っこに寝っ転がって飽くことなく読みふけった。

     やがて英光の個人研究誌なぞを出すようになり(私家版、と銘打ったが、無論書籍の形態ではない。タイプ印刷をじただけの冊子である)、遺族のかたの元にも出入りを許されるようになった。

     だが、酒に酔うとひどく言動が無礼になるへきを持つ私は、二十八歳の折にこともあろうに、かの遺族のかたに該癖がいへきを発揮し、爾後じごの交流を絶たれた。そうなれば贖罪しょくざいの意味で、英光の小説を読むことを自らに禁じる流れにもなったが、すべては自業自得と云いじょう、約十年血道をあげていただけに、この喪失感はなまなかなものではなかった。

    • 30代半ば前。デビュー前の四面楚歌状態のころ
      30代半ば前。デビュー前の四面楚歌状態のころ

     翌年には性懲りもなく酔って人様を殴り、逮捕、罰金刑も受けた。わずかに残っていたところの、親しいと思っていた知人もそれを機にすべていなくなった。見事に、何もなくなってしまった。

     そんな四面楚歌しめんそかの状況下ですがりついたのが、藤澤清造の私小説である。以前に一度読んだ際に、この世を恨み、己れを呪詛じゅそしつつも、どこかユーモラスな独得の世界にかれたことを思いだしたのである。そして復読してみたら、今度は泣きたい程の共鳴を覚えた。

     七年後、三十六歳になった私は小さな同人雑誌に参加した。はな、清造の作品論を書くつもりが、ひょんな流れからヘタな私小説を書いていた。

     三作目が『文學ぶんがく界』に転載され、そのまま他の商業文芸誌に書き続ける機会を得たことは、私にとって幸であったか不幸であったか分からない。しかし、これまでどの作もる熱情をこめてものしてきた。書き手としては当然のことながら、私の場合は自任し、筆にものせている“清造の歿後ぼつご弟子”なる囈言たわごとを、決して不様な囈言だけでは終わらせぬための理由もある。

     転載から恰度ちょうど一年がった頃、講談社での単行本化の話がやってきた。当初、同社発行の『群像』所載の二作で一冊になる予定だったが、私の希望で同人雑誌発表の「墓前生活」と云う処女作も収録してもらった。

     清造の菩提ぼだい寺から、今は老朽して取り払われた、その作家の昔の木製墓標を譲り受ける顛末てんまつを記しただけの素っ気ない駄作だが、けれどこれが私の本然の作風であろうことを、自身で何んとなく察しているが故にである。

    【近況】 現在発売中の『文學界』十二月号より、連載小説「雨滴は続く」が始まりました。向こう一年ぐらいの予定です。近々の拙著は、単著として四十五冊目の『随筆集 一私小説書きの独語』(角川文庫)が今月末に、同四十六冊目の『芝公園六角堂跡』(文藝ぶんげい春秋)が年明けの頃に出ます。

    プロフィル
    にしむら・けんた
     1967年、東京生まれ。中学卒業後、日雇い労働など様々な仕事につく。2007年、『暗渠の宿』で野間文芸新人賞、11年、『苦役列車』で芥川賞を受賞。文庫版の『藤澤清造短篇集』『田中英光傑作選』などの編集も手掛けた。
    2016年11月30日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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