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    本にまつわるさまざまな話題を特集します。

    『ロシアの影』1985年 藤井省三さん

    希望語る魯迅に救われ

     私が初めて魯迅(ルーシュン、ろじん、1881~1936)に出会ったのは、1964年東京オリンピック前年のこと、小学5年の時だった。東京大田区に住んでいたのだが、近所の空き地に次々と住宅が建ち、それまで野球少年だった私は読書を始め、魯迅の短篇たんぺん小説「故郷」を手にしたのだ。変わり果てた故郷に帰り、「ああ、これは僕が二十年来思い続けてきた故郷ではないだろう」と悲しむ語り手に、私は子供なりの共感を寄せていたのかもしれない。

     60年代末の高校時代には、わが家はアメリカ人留学生たちのホストファミリーとなり、二人の兄は欧米人のガールフレンドを家に連れて来た。私もロータリー交換留学生としてオーストラリアに留学したが、持参した本は『荘子』3巻本だった。1年後に帰国すると、学園紛争は鎮まっていたものの、中国の文化大革命(1966~76)は継続中で、反抗期の私は中国と西洋との間を彷徨さまよい、『毛沢東語録』をポケットに入れて、『魯迅作品集』3巻本を愛読した。

     大学では文学部中国文学科に進学し、修士論文は辛亥革命(1911)前夜の青年魯迅における英国ロマン派詩人バイロンの受容というテーマで書いた。

     日中両国は72年に国交正常化を果たしたものの、平和条約を結んだのは文革終了から2年後の78年であり、その翌年に政府交換留学制度が始まり、私はその第1期生となった。しかし中国では混乱が続いており、上海・復旦大学の留学生宿舍では、新築というのに熱湯シャワーが吹き出し、配電盤の小火ぼやが生じ、図書館では閲覧にも三顧の礼が必要で、著名教授がなおも反革命分子として清掃の懲罰労働を課されていた。

     文革中に絶滅にひんした文学は復活していたが、文革でつらい目にあったけど共産党に救われました、というステレオタイプの小説は、そもそも文革の発端は党内権力闘争だったのに……と考えると、できの悪いメロドラマに見えた。

     一番辛かったのは、街で知り合う青年たちが、なぜ中国に留学するの、アメリカに行けば良いのに、と話しかけて来ることである。この呪いを聞くたびに――ああ、これは僕が20年来思い続けてきた中国ではないだろう……と落ち込んでしまった。

    • 1980年、中国へ留学していたころ
      1980年、中国へ留学していたころ

     1年後に帰国しても、中国文学は読む気にならず、むしろ漱石が『文学論』の序文で語る彼の辛いロンドン体験に共感を覚えた。そこで漱石全集をひもとくと、1902年に英国を離れて帰国した漱石と、その年に留学生として来日した魯迅との間に多くの共通点があることに気付いた。20世紀初頭、革命前夜のロシアで恐怖と不安の異常心理を描いたアンドレーエフ(1871~1919)を、二人は同時期に東京で読んでいたのだ。こうして書き上げたのが『ロシアの影』であった。

     その後、東大文学部での30年間を現代中国をめぐる比較文学研究で過ごし、今月末の「退休」を迎えることとなった。その間にも天安門事件(1989)など、中国文学者アイデンティティを揺るがす事態が幾度か生じたが、そのたびに私を救ってくれたのが魯迅文学であったと思う。

     魯迅は中国の巨大な暗黒の時空を直視し、絶望を確信しながらも希望を語り続けた――漱石や芥川龍之介らに学びながら。太宰治から村上春樹まで、多くの日本作家が魯迅に深い共感を抱くのは、高い技法と深い思想から成り立つ魯迅文学に魅了されたからであろう。今の私は魯迅を手がかりに、21世紀東アジアの光と影を見極めたいと思っている。

    近況 『魯迅と日本文学――漱石・鴎外から清張・春樹まで』刊行から3年となり、そろそろ『日本人の魯迅読書史』の執筆を始めます。莫言をめぐる魯迅や日本文学との比較研究も進めたいものです。「阿Q正伝」冒頭の一句「頭の中にはお化けでもいるかのよう」が耳鳴りしていますが……。

    プロフィル
    ふじい・しょうぞう
     中国文学者、東大教授。1952年、東京都生まれ。中国・復旦大学への留学を経て、88年に東大文学部の助教授となり、今年3月に定年退職を迎える。著書に『村上春樹のなかの中国』など。魯迅や莫言をはじめ、中国文学も多く翻訳する。
    2018年03月28日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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