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    魚尊び 小さな生の救済願う

    井伏鱒二 生誕120年…野崎 歓さん(寄稿)

     広島の原爆の悲劇を描いた『黒い雨』や短編『山椒魚さんしょううお』などで知られる作家、井伏鱒二が、今年生誕120年を迎えた。関連の書籍刊行も相次いでいる。昭和を代表する名作を残した作家の魅力について、文芸誌「すばる」に「井伏鱒二論」を連載した東大教授で仏文学者の野崎歓さんに寄稿してもらった。

    • 井伏鱒二は、旅や温泉を愛した。1966年、山梨県の下部温泉を訪ねて(山梨県立文学館提供)
      井伏鱒二は、旅や温泉を愛した。1966年、山梨県の下部温泉を訪ねて(山梨県立文学館提供)

     久しぶりに釣りにでも行きたい。数年前ふとそう思った。海や川と縁の深いところで育った子ども時代はよく釣りをした。それ以来もう何十年もご無沙汰だが、釣りに夢中になった頃の記憶は大切な思い出になっている。期待どおりに釣れなかったことまで含めて懐かしい。そういえば自分がいかに釣れない釣師であるかをめぐって、井伏鱒二が面白い文章を書いていたっけと考え、水辺から遠い都会暮らしの日々に少しでも潤いをと、『川釣り』(岩波文庫)を再読した。

     それ以来、文庫本で読める限りの井伏作品をたちまち読み尽くし、いつの間にか文芸誌に井伏論の連載などさせてもらい、狭い部屋に全28巻別巻2巻の美麗箱入り全集をあふれさせて、読みふけっては原稿を書く日が続いたのだった。

     何しろ95歳まで長生きして健筆をふるい続けた人である。全貌ぜんぼうをとらえるのは容易ではないが、はっきりと見えてきたことがある。井伏がいかに魚類をいとおしんだ作家だったかということだ。「魚を尊ぶ」という鱒の字をペンネームに用いたのはだてではなかった。初期の珠玉作「山椒さんしょう魚」や「こい」から、魚や水棲すいせい動物は彼にとって特別の意味をもった。魚が滅びれば国も滅びるとでもいいたげな打ち込みようである。戦時中の「ひかげ池」から『黒い雨』に至るまで、「養魚池」が作品のひそかなテーマになっている。人間存在の危機を魚の小さな生に託し、その救済を願い続けたといってもいい。

     『黒い雨』の最後、玉音放送の流れる広島市内で、ウナギの子が元気に溝川をさかのぼって泳ぐ描写は忘れがたい。ウナギがとうとう絶滅危惧種に指定されてしまったいま、このラストシーンはいっそう重い意味をもつ。

     その『黒い雨』は、モデルとなった釣り仲間の重松静馬のたび重なる懇願を受け、彼の日記を主な素材として書かれた。そうやって他者の言葉、文章を呼び寄せ、作品を釣り上げる腕前にも注目したい。井伏はドリトル先生シリーズの名訳者であり、中浜万次郎伝や故郷の広島県福山市近くの村の古文書を掘り起こして作品化した。そうかと思えば『さざなみ軍記』のように、平家の若君が残した日記の現代語訳との触れ込みで、純然たるフィクションをつづったりもする。

     文学創造において翻訳や翻案が演じてきた本質的な役割は現在、文学研究の領域で世界的に注目されているところだ。翻訳と創作の境を自在に行き来した井伏の文業は、改めて国際的に評価されるべきだろう。

     照れ屋の井伏のことだから、そんな大げさなこと言わないでくれと困惑したかもしれない。だが作家の遁辞とんじを真に受けてはいけない。太宰治や小林秀雄を感嘆させたその文学世界は、いまだ瑞々みずみずしい生命を保って、緑豊かな水辺のようにわれわれの前に広がっている。

    井伏鱒二

     1898年、現在の広島県福山市に生まれる。「本日休診」などで第1回読売文学賞を受賞。作家の太宰治との交流でも知られた。1993年死去。

    旅、釣り、温泉愛…懐深い一面も

     節目を迎える今年、書籍刊行の動きが目立っているのは、中公文庫だ。井伏の骨董こっとう愛とユーモアが漂う小説『珍品堂主人』の増補新版を1月に刊行=写真=。太宰治に関する文章を集めた『太宰治』を7月、旅のエッセー『七つの街道』を10月に出版する予定だ。

     代表作『黒い雨』(新潮文庫)は累計部数312万部を超す。近年は懐が深い文人としての一面がより見直されているようだ。甲府市の山梨県立文学館で6月17日まで開催中の「生誕120年 井伏鱒二展」でも、副題に「旅好き 釣り好き 温泉好き」と銘打ち、文学資料と同時に彼が愛した県内の旅館や温泉などを紹介している。

     刊行された「早稲田文学」初夏号(発売・筑摩書房)には戦中、中国大陸で出た日本語雑誌に井伏が発表した単行本未収録の小説「饒舌じょうぜつ老人と語る」が掲載された。

    2018年05月31日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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