文字サイズ
    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

    『身体はトラウマを記録する』 ベッセル・ヴァン・デア・コーク著

    身体の主導権を喪失

     トラウマ研究の第一人者が、脳科学の知見と豊富な臨床経験をもとに、そのメカニズムと回復の道筋を示した全米ベストセラー。興味深いのは、筆者が徹底して「精神」ではなく「身体」の問題としてトラウマを語っていることだ。

     危機的な状況を察知すると、脳は、ストレスホルモン系と自律神経系を動員して、それを回避するための行動を体にとらせようとする。ところが、閉所に閉じ込められていたり、危機の原因が家族にあって逃げ場がなかったりすると、体はそうした行動を取ることができない。結果、体内ではずっと警報が鳴り続けることになる。これがトラウマの状態だ。つまり、トラウマの原因は危機的な状況そのものにではなく、身体を思うように守れなかった経験、自分の身体の主導権を奪われる経験にこそあるのだ。

     実際、トラウマを負った人は、自分の体が感じているはずのことを正確に感じることができないという。たとえば、患者に目を閉じてもらい、手のひらに硬貨や鍵を握らせる。すると、手の中にあるものが何であるか、想像すらできない人が多い。体が常にサバイバルモードで緊張しているために、感覚から受け取った情報を一つにまとめあげたり、自分の内部で起こる感情の変化を自覚することができないのである。

     緊張した体にはいずれ痛みがくる。だからといって、これを薬物療法で緩和しても、根本的な解決にはならない。患者の「治ろうとする力」を助けながら、いかに身体の主導権を取り戻していくか。ヨーガ、演劇…その探求の過程で、著者はさまざまなアプローチに出会う。

     トラウマを扱っているにもかかわらず、本書全体が溌剌はつらつとした明るさを帯びている。それは、著者が単なる治療家ではなく、知的探究心に満ちた研究家だからだろう。頭ごなしに処方箋を示さず、患者一人一人の身体を謎として捉えること。知ろうとして同調するその姿勢が、最良の治療法なのかもしれない。柴田裕之訳。

     ◇Bessel van der Kolk=米国マサチューセッツ州のトラウマセンター創立者。ボストン大教授。

     紀伊国屋書店 3800円

    2017年01月23日 05時23分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大手町モールのおすすめ
    帆布鞄
    リンク