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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・塚谷裕一(植物学者・東京大教授)

    『ゆらぐ玉の緒』 古井由吉著

    理系的な独自の世界観

     としをとると次第に過去の時系列が曖昧あいまいになってくるものだ。日記で確かめると思ったより最近であったり、逆にはるかに昔であったりする。二つの記憶が混じっていることもある。

     本書の語り手も、八十に近く、複数回の入院を経て独居中の身だけに、しばしば時系列が模糊もことする。東京大空襲の記憶が語られる一方で、3・11の大震災、熊本地震、関東・東北豪雨など、最近の災害記憶も語られる。それら事実と幻との境目は危うい。人物も人違いや影の中にせかける。記憶と連想をつなぐ糸はかすかで、それが作品を小説にしている。

     しかも試みに、時代があちこちへと飛ぶ「道に鳴きつと」で、作中の出来事を年表に書き出してみれば、すべての時系列はぴたりと合って、一年の狂いもない。記憶が曖昧になりつつある老人の、とりとめもない語りにみせておいて、その実は厳密に計算された作品なのだ。

     この理系的センスはところどころに散見される。例えば母親の遺体と共に夜を明かす間、その白髪のびんが風もないのに揺れる理由も、語り手の冷静な観察から、ストーブの対流のせいとして説明される。部屋の時計の、神経に障る秒針の音も、物理的な共鳴として解かれる。古井氏の作品がいわゆる私小説に収まらず、独自の世界を持つ一つの背景は、この理系的・分析的思考法ではないか。

     もう一つ、この作品は日本の現代の小説として珍しく、動植物への目配りが細やかなことを指摘しておこう。ミズキの花は、ナチュラリストにとって初夏の森の楽しみの一つとして馴染なじみのものだが、これを取り上げた小説はこれまでなかったのではないか。しかも、その香りを中心に据えた描写は、本作が初だろう。またむくの木の花、それも雌花に目を留めた作品も初めてだ。時鳥ほととぎす、モチノキなど、日本の小説群がこれまで看過してきた日本の自然も、ここには書き留められている。

     ◇ふるい・よしきち=1937年東京生まれ。作家。71年「杳子」で芥川賞。90年『仮往生伝試文』で読売文学賞。

     新潮社 1700円

    2017年04月10日 05時29分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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