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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・土方正志(出版社「荒蝦夷」代表)

    『五月の雪』 クセニヤ・メルニク著

    北の隣人の清冽な物語

     マガダンといって「ああ、あそこか」とうなずく読者はどれだけいるだろうか。マガダンは「東京から旭川に向けるような見当で直線を伸ばしていって、そのまま北海道を突き抜け、オホーツク海を越えて、ロシア極東部の大陸にぶつかったあたり」に位置する辺境の港町である。帝政ロシアからスターリン時代にはコルィマ鉱山開発のための強制労働の流刑地となり、極寒の大地に多くの血が流れて恐怖政治の象徴的な土地ともなった。その暗い記憶と共に語られがちなマガダンの町と人の物語が本書だが、こちらの先入観を裏切って、作品は軽やかにあたたかい。

     ソ連時代のマガダンで生まれて、十五歳でアメリカに移住、現在もアメリカに暮らして本書が第一作の女性作家の短編集である。幼い日の思い出に、ソ連からロシアへの世の混乱、そしてアメリカ移住と、時間的なスケールでいえば、一九五八年から二〇一二年に至る九編の短編に、作者自らの記憶や体験だけでなく、過去を知る家族や親族、同郷人たちの物語が視点もさまざまにつづられる。ある作品の登場人物が、別の作品に姿を見せて、時代と人と町が重層して絡まり合って、辺境に暮らす我らが北の隣人たちのクロニクルが巧妙に語られる。

     恋人たちの、夫婦の、親子の、友人の物語である。ロシアに残る道を選んだ者もいれば、アメリカに新天地を求める決断もある。ひたひたと冬の厳しさのごとく辺境に押し寄せる激動にあらがい混乱をやりすごし、あるいは暗い過去に足を取られながら、日々の生活はそれでも続く。春のよろこびにも似たけなげさとひたむきさとたくましさが、もの悲しくもユーモラスにいじらしい。辺境から異文化を我がものとして、さらにその異文化を描く、そんな複眼にして強靱きょうじんな作品が、いま、私たちに語りかけてくれるものは多い。雪解け水の清冽せいれつさにも似た静かな声がこえる。小川高義訳。

     ◇Kseniya Melnik=1983年生まれ。ニューヨーク大で創作修士号を取得。現在は、ロサンゼルス在住。

     新潮社 2000円

    2017年06月12日 05時27分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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