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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

    『感性文化論』 渡辺裕著

    昭和に耳の文化を発掘

     テレビがお茶の間のスタンダードになる前、スポーツは人々にとって「耳で聴く」ものだった。昭和初期以来形づくられてきたラジオやレコードで観戦するこのスタイルを、テレビや動画による観戦から視覚を差し引いた「劣化版」と侮ることなかれ。耳には耳の臨場感があり、伝え方感じ方の文化がある。それはまさに我々が失った一つの「異文化」である。

     たとえば、実況中継のやり方。重視されたのは、客観性よりも語りとしての魅力、アナウンサーの実感を交えた演劇的な迫真性であった。「戦雲いよいよ急を告げ」「天下分け目の投球」など、早慶戦がまるで戦国時代の合戦のように聞こえてくる節回し。事実と虚構がないまぜになった一つの物語として受容することこそ、スポーツ観戦の自然なあり方だったのである。何と、架空のドリームマッチの「実況中継」まで行われていたそうだ。

     驚くのは、こうした旧時代のスタンダードが、テレビ化が進む1960年代になってもまだ形を変えて残存していたことである。たとえば市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」。「記録」映画という題目からすると意外なことに、シナリオは開幕前にすでにできあがっていたし、陸上男子百メートルが映画内では四〇秒かかってゴールするなど、アナウンサーの声がアフレコによる虚構の箇所もある。現代の感性には「やらせ」でも、当時の感性には「自然」。表現メディアが視覚になったからといって、耳の文化がすぐに消えるわけではないのだ。

     新時代の幕開けとして語られがちな60年代後半。本書はそれを旧時代が残存する「終わり」と位置づけ、安易な線引きを拒む文化の「しぶとさ」のようなものを描き出す。東京オリンピック以外にも、新宿西口のフォークゲリラ、日本橋の景観などが語られる。半世紀前の日本人が、何をリアルと感じ、何を美しいと思っていたか。近くて遠い異文化を掘り起こす感性の考古学である。

     ◇わたなべ・ひろし=1953年千葉県生まれ。東京大教授。専門は音楽学。著書に『歌う国民』など。

     春秋社 2600円

    2017年06月26日 05時23分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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